艾蕪の書いた青龍橋と瀾滄江渓谷--『在山峡中』(『山峡にて』)から その1

徐霞客・デービスと、もう一人この南茶馬古道を通った人物をとりあげなければなりません。それは現代文学作家の艾蕪です。


艾蕪(1904-1992)は四川省新繁県生まれ、本名湯道耕。父は教師でありました。成都省立第一師範学校に入るも旧式教育と旧式の結婚に幻滅し、昆明に出、雲南の奥地とビルマ・マレーシアまでを旅した流浪の作家です。

ちなみにペンネームの艾蕪(アイウー)とは、愛吾と同音で、もともとはこちらをペンネームとしていました。当時の青年に大きな影響を与えた五・四期の新思想の影響があります。胡適の「人は大我(社会を指す)を愛し、小我をも愛さねばならない」という主張がらとられたものです。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳
魯史の街道の農民


彼の作品は、社会の最底辺の人々、しかもこれまでほとんど文筆が及ぶことのなかった辺境の人々、雲南の言葉でいうならば「夷方」、つまり漢人の官僚に統制された「漢朝地」と離れた山深くの異域・外国の人々を描いています(ただし、ビルマについては許地山が『命命鳥』など、ビルマ人の情愛溢れる不思議な呪術的世界を描いています)。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

馬とともに生きる

漢人の流れ者たち、盗馬賊・アヘン売り・馬幇・旅店の人々・貧困にあえぐ山の民、そしてタイ族・ジンポー族・ビルマ人などの少数民族に対して、ときとして過酷な運命と不幸に翻弄されるこれらの人々に対して、深い同情をもったまなざしで描いています。


中国文学の中で、これらの辺境の人々を筆に登らせたことが前人未到の境地であるところは誰しも認めるところです。流浪体験に基づく作品としては、代表作『南行記』(1933)のほか、中篇小说『我的青年時代』(1948)、散文集『漂泊雑記』(1935)、『緬甸小景』(1943)などがあります。

1927年の3月、艾蕪は昆明から友人万金釗という人物と再開すべく、大理地方の祥雲県に出るのですが、旧式結婚の縁談に不満で、すでに彼は家を出ていたため、弥渡県の親戚の家に行きますが、そこでも彼はいませんでした。そこから一旦南下し、巍山・順寧に抜け、ここから永昌(今の保山市隆陽区)までふたたび北上するルートを教えてもらい、そうして怒江(サルウィン河)を越え、高黎貢山脈を越え、ビルマ国境近くの街騰越(いまの騰衝)に出、干崖(いまの盈江)からビルマに入り、イラワディ河沿岸の街、バモーの手前の茅草地で、馬店(キャラバン宿)で住み込みで働き、最後にラングーンに出ています。