鳳慶と茶葉交易


勐土司の反乱が鎮圧されてから、これまで土司統治から朝廷派遣の地方官の統治になる「改土帰流」が行われて、魯史は万暦二十六年(1598)阿魯史巡検司が置かれます。咸豊二年(1852)外委署が置かれて、瀾滄江北側(現地では江北と呼びます)を管轄していました。


この地の有力者である甘遇春が街を整備したとき、あわせて1919年劇舞台を寄付を募って造ったとのこと、このとき滇劇団の「玉和幇」を招いて賑やかに十回もの公演をやってこけら落としをしたのでした(140頁)。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

魯史の店舗


もともと明代の洪武十八年(1385)には、いまの鳳慶、つまりかつての順寧までの道は整備されていたそうです。


もともと順寧近辺は古茶樹が多く、国道から魯史に入る公路の分岐点のある大寺にも古茶樹が確認されています。このあたりは茶の飲用と生産をはじめた濮人、つまり今のプーラン族など、モン・クメール系の民族たちの居住地でしたが、彼らも野生の茶樹から茶葉を採取し、茶を飲用していたことでしょう。

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魯史の住宅門楼


また、いまの臨滄市南部に位置する双江県は、勐庫茶の名で知られた茶の産地でしたが、その輸送ルートとして、双江から雲州・順寧を通って大理に出る交通路は、シップソンパンナー周辺の六大茶山で生産された茶葉の運送ルートとともに重要な交通路といえます。


加えて順寧は明末には徐霞客が太華茶を山中で振る舞われたように、茶はこの地方でも名産でした。ただし、順寧の茶葉の茶葉生産が決定的に重要な役割を果たすのは、清末の光緒三十四年に順寧の知府、琦璘倡が、勐庫茶の品種を入れて茶山を開発してからです。とくに大理地方の商業の中心地、下関街との関係は重要で、下関で圧縮茶である陀茶を生産する際の茶葉として、大量に運び込まれることになります。


中華民国期には、無量山中の茶山の開発が盛んになされています。たとえば無量山の東側景東県でも、紀襄廷によって茶山開発が行われています。『魯史鎮志』によれぱ、中華民国期には魯史街でも駱英才が茶園を開発し、十戸あまりの家が参加して茶葉の生産が始まります。あわせて中華民国期は、海外の需要を鑑みた茶葉の専門家、馮紹裘が順寧で紅茶を開発・生産し、順寧の地は雲南紅茶の産地として発展しました。