明末の大旅行家、徐霞客の無量山脈行の記録を『徐霞客遊記』巻12より要約します。


8月10日朝、雲州を南門から出立。順寧に向かう。


11日、帰化橋を渡り、普光寺に入る。ここで阿禄史(今の魯史鎮)の寺僧と会って昼食をともにますが、この僧侶は若いとき、瀾滄江を渡ってビルマ側の木邦(センウィー)、阿瓦(マンダレー)などを旅した見聞を聞いています。当時ビルマ北部は宝石の産地として知られており、多くの漢人が採掘と交易のために訪れていたのでした。この日に順寧に入ります。

12日、順寧で脚夫(人足)を探し、蒙化の妙楽禅師とともに馬幇(荷馬キャラバン)を待ちます。

13日、馬幇が夕方にきたので、妙楽とともに馬を案配します。馬幇は白塩井(今の大姚県石羊鎮)から塩を運搬してこの地まで来たといいます。


14日、北門から二里先に外来の官吏を迎える接官亭があり、ここに税課司があって、永昌に行く西の路と分かれます。龍泉寺があり、ここが元代から明末万暦年間までこの地の統治者であった勐氏の花園の跡であると知ります。この辺りが旧城で、今は鳳山に新城となっています。この日、高簡槽の駅站に宿泊。馬店(馬をつなぐことのできる旅店)の店主は梅といい、この遠来の客をたいへん丁寧にもてなし、葉を煎ってここで太華茶を振る舞います。鳳慶の名産の大葉茶の系統の茶のようです。

『問路魯史─探秘南茶馬古道』(雲南大学出版社、2006年)の著者である朱浄宇氏は、徐霞客の歩んだ道を魯史まで辿り、いまは零落したこの古道を探訪しています。鶏街子から十キロほどの道のりにあり、高梘槽という村名になっており、いまでは十から二十戸近くの村だそうですが、確かに最近まで梅姓の家が居たそうです。


15日、高簡槽を出発し、瀾滄江の谷底を望んで峠を降ります。対岸の山は三台山。瀾滄江は折しも雨季で水は深く、急で濁った水が滾々と流れていたのでした。漭街渡の渡口で渡し船で南岸から北岸に渡ります。ここも難所で清・光緒年間の順寧県志』が記録するところでは、明の正徳十三年(1518)には、瀾滄江の増水のために七日間も渡ることができなかったとあります。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

漭街渡

馬幇は、馬を牽いて河を渡るために渡河に時間かかります。徐霞客は馬幇を待たずに先に進みます。ですから、瀾滄江を舟で渡るのは、物資輸送に不便極まりなく、のち1700年代にこれより下流に青龍橋の鉄索橋を造って渡ることになります。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

徐霞客もあるいた瀾滄江の峠道と棚田


徐霞客は、三台山を登ります。急な坂の斜面の開けたところに数十軒の民家がわずかな平地に寄り添うように集まっています。村に着くと、ここにも公館がありました。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

霧の三台山

阿禄司(今の魯史鎮)につくと、遅れて進んでいた馬幇は午後の到着となり、この先に水も草も補給できないのでここで宿泊。戸数わずか100戸。この日は中秋節の月見の日です。折り悪く月は雲に隠れて見えないが、徐霞客は順寧から買ってきた焼餅(穀類を練って焼いたもの)を取り出し、月見の品にして食べました。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

魯史鎮のメインストリート


16日、黒恵江(原著では漾濞江)沿いの渡し口、新牛街(今の鳳慶県犀牛)に出ます。一百戸の家があり、すべて漢人。公館があり、巡検司が置かれています。雨季であるので、河幅は瀾滄江の半分くらいの黒恵江も、濁った水が激しく流れ、二隻の舟を並べてようやく北岸に渡ります。猛補には警備のための哨があって、この先で公郎の境界内に入る。突出した懸崖があり、この崖に三つの楼閣が建っていました。徐霞客はこの楼閣まで登ってみます。ここに住持する隠庵和尚に引き留められるがなおも進みます。桫松哨でようやく馬幇の一隊に追いつきます。ここまでくると、北面遙かに大理の点蒼山の連峰が見えました。この日は瓦葫蘆の旅店で寝ます。


17日、蒙化に到着。古城です。土知府(府を管轄する土着民出身の統治者)は左という姓です。いまのイ族に当たります。ここには朝廷から派遣されてきた流官である同知もいました。同治は全城の権限を掌握しており、土官と流官が同居していながら他の地方とは違って、互いにうまく融通が利いているようだと記しています。