徐霞客の南茶馬古道
明末の大旅行家徐霞客はその最後の旅を雲南の旅に当てています。彼は長江の源流を確かめるべく、雲南を北上して麗江まで行き、世界遺産のある大研鎮で木氏の土司(現地民出身の統治者・朝廷から任官されている)、木増に会い、詩の添削をしたり、大理地方の仏教の名山である鶏足山について『鶏足山志』を編纂したりする一方で、木増の手厚い庇護を受けています。
彼の生涯最後の旅は、ビルマ国境の街、騰越(今の騰衝)に行くことで、この地の火山地を見聞することでした。
その帰路、明・崇禎十二年(1639)年8月のこと、瀾滄江(メコン川)と怒江(サルウィン川)との間にある盆地で漢人の根拠地であった永昌(現在の保山)から、往路に通った大理から来る博南古道ではなく、 瀾滄江を南下し、右甸(現在の昌寧県)、順寧(現在の鳳慶県)を経て、雲州(今の雲県)に至ります。
ここで瀾滄江が元江(紅河上流部)と合流するという説が間違えであると確かめると、再び北上し、蒙化(現在の巍山)まで、無量山中を横断しています。天啓年間当時、この辺りは江西人、四川人も多く、この人たちが旅慣れて見聞も広かったために、雲州で十分な情報を得ることができ、これ以上南下する必要はないと考えたからでした。
瀾滄江中の山地の棚田
無量山中を横断するこの部分は、当時雲南南部から北部を貫いていた物資輸送ルート、いわゆる茶馬古道の支線といってよいルートで、南茶馬古路の一部といえます。
雲州・順寧から蒙化まで、7日間をかけています。
