19世紀末英国の軍官デービス少佐はかつてビルマ=雲南間の鉄道敷設の調査を行いました。これも徐霞客とならんで、今回旅した魯史鎮を夾んで、大理白族自治州境界内の巍山イ族回族自治県(かつての蒙化府)から、臨滄市の鳳慶県・雲県との間に横たわる無量山脈を横断する旅ですので、デービスの旅行の行程を抜き書きしておきます。


1895年2月5日大理出発


6日に蒙化(現在の巍山イ族回族自治県)に到着。翌日7日に出発し、五里巷で宿泊。


私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

瀾滄江山中の人々


10日チャンファンスーから主街道に入る。松林か禿山の、羅羅族(現在のイ族)の居住地を通る。新牛街で官僚の宿舎に泊まる。ここから順寧までは漢族が中心であると述べています。新牛街で黒恵江に入ります。

11日仏塔のあるタチンシャン到着し、阿魯史(現在の魯史鎮)に入ります。戸数が150戸という。だから明末の徐霞客の訪問時では100戸の集落というから、たいして増えていないのです。12日松林塘、良好な官吏用宿泊所がある。ここからメコン川を望む。

私想と日々─中国文化研究者・川野明正の筆記帳

瀾滄江山中の人々-棚田へ野良にでる


13日海抜3400フィートで、瀾滄江の青龍橋を渡り、その日は新村に到着して宿泊。


清代の乾隆二十六年(1761)青龍橋の鉄索橋を建設し、鶏街子から新しい路を整備しました。


朱浄宇氏はこの路を踏査しています。鶏街子からは、いまは大河村まで舗装道路があり、新村まで石畳の路ができており車で行けるようです。小寨子からかつての古道が青龍橋まで延びています。現地の墓地には、たとえば明朝万暦二十三年に順寧から移民した江西籍の人物の墓誌があったりなど、朱浄宇氏の書くように、現地の土司の勐氏が明軍に破れて滅びてから、急速に漢族がこの一帯の山地に移民したことが窺われます(『探秘南茶馬古道』81頁)。


新村の駅站は鳳慶の県政府所在地から26㎞の山中にありいまでも二三十戸の家があり、かつての古道の街路が残っています。幅二尺、長五六尺の石板を街道の中央に連ね、精緻な石畳が残っているそうです。長年の馬の往来で磨り減った石板が光を放ち、ところどころ蹄の跡が散見されます。この先、山間を細々と青龍橋までの街道が湾曲しながら連なる道です。


14日に順寧に到着。海抜5000フィート周囲1マイルの不規則な形をしている。ありふれた土造りの低い壁。15フィートの高さ。城壁の内部はぎっしり家屋が建て込んでいて、戸数は600~700戸。1日滞在している。 タイ族の地名は、モンコン(99頁)。


雲州(現在の雲県)に出ます。商業はパンサイ(回族)が担っている。戸数は800戸。蓑衣と粽袍が名産である。タイ族が何家族かいて、モンユと呼ばれている。


以上抜き書きです。