一昨日の記事で書きましたように、年末年始は雲南で古い街(古鎮)の訪問をしていました。


26日朝に自家用車(チェリーA516という普通のセダン)で自宅のある大理(雲南省西部・南詔国の古都)を出発しました。


ところが、本来の最初の目的地の雲龍県(大理白族自治州内)に行くために高速に乗ったところ、そちら方面の道路が封鎖されていて、計画変更を余儀なくされました。大理白族自治州の南に位置する臨滄市内の鳳慶県に行き、ここで宿泊してから瀾滄江(メコン川の中国名)沿岸の山中にある魯史鎮に行くことにしたのです。


まず高速道路で祥雲県に行き、そこから去年開通したばかりの、祥瀾公路(国道)を一気に南下します。大理白族自治州の弥渡県を縦貫するかたちになります。南部はすでに山地になり、山の合間を抜けると、細長い盆地にでます。ここは大理白族自治州の最南に位置する南澗イ族自治県です。その県政府所在地で昼食をとります。


さて南澗の街は十年前までは小さなメインストリートとともいくつかの通りがあるだけの街だったのが、新しい街路やビルも林立してたいへんな繁栄に見えました。


こうまで街が発展したのは、ちかくに小湾ダムというメコン川流域の電力発電を担う大プロジェクトが大々的に展開されたからに違いありません。この街の数十キロ先がダムの所在地です。


私想と日々─まさどん氏の観念的筆記帳

市街を望む

それでも国道沿いは低い海抜のこの地にあって、サトウキビの紫色の竿を何本も路傍に立てかけて売っている農民や、街に買い物に来た人たちの繋いだロバなどが散見されて、田舎情緒も残しているのでした。メインストリートの裏手(東北側)は小高い丘陵になっていますが、この辺りの路地裏には古い民居も残っていて、泥煉瓦を積み上げた土壁の家が並んで素朴な町並みです。しかし、扇形や幾何学模様を施した十分に意を注いだ漆喰壁もみられ、それなりに県政府所在地としての住民の意地も感じられるのです。

私想と日々─まさどん氏の観念的筆記帳

東北面の丘陵部にある民居群

小学校はかつての県の学校である書院の建築がそのままに残されています。毓秀書院という学校です。

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書院の門楼の細やかな装飾


南澗県はもと元代以降成立した定辺県ですが、この書院は明代の成化八年(1472)知県の馮源広により県学として建てられたものです。
嘉靖三十七年(1558)の再建を経て、のちに清代咸豊・同治年間にわたるイスラーム教徒を中心とした戦乱で荒れ果てたものを、清末の光緒年間に再建したもので、清雍正七年(1729年)定辺県が隣の蒙化府の行政区画に組み込まれて消滅し、県学も蒙化府に移ったたあとも、中華民国期まで孔子の祭祀が脈々と続けられていました。


前面三方に軒を突き出し、斗拱を重ねた反り上がり屋根(飛檐)も美しく、梁と棟には龍と鳳凰の木彫が施され、柱には細かい文様や花鳥の彫刻を施した装飾板を随所に配置しており、彩色された秀麗な建築です。その奥にはいまも二階建て囲み屋形式の書院の建物を遺しています。