芒神は句芒神といって、春を司る東方青帝の補佐神です。木正といい、五行説では木徳であるため、木を司っては草木の生長を管轄する神です。その年の十二支によって規定があり。老人・壮年・少年と姿を変えます。また、立春が元旦の前後にあるかどうかで、春牛につきそう牧童の位置も異なります。立春が正月の前5日と後5日の間であれば、牧童は牛の身の横に立ち、立春が正月の5日より前であれば、牧童は牛の前に立ち、正月の5日より後ではあれば、牧童は牛の後に立つ決まりです。
太歳は「当年太歳」とか値年太歳といって、年ごとに交代する歳神ですが、この二つの神の信仰が、その年ごとの春を迎える牧童の神像となりました(図5)。
図5・当年太歳(雲南省大理州)
立春の前日、各地方の長官(知府・知州・知県)は輿に乗り、牧童と春牛は台に乗せて行列をつくり、郊外を回ったあと、街に迎え入れます。翌日太歳廟という廟堂で地方の長官が柳の枝の鞭や緑色の鞭で牛を打ち、五穀豊穣を表します。最後に腹を破ると、腹の中には小さな張り子の牛が入っていて、これを太歳の神前に捧げます。十九世紀末に雲南を踏査旅行したデービスによれば、大理地方の大理古城では、この春牛の像の胎内には、12頭の水牛像と、小さな人形が入っていて、春牛を壊して捕りだしたあと、地方長官や有力者に贈られたのだといいます(デービス『雲南』1989年、88-89頁)。
大理古城では、東門の外に太歳廟があり、かつて各城市では、東門や南門の東側にこの種の廟がありました。五行説に基づいて春を司る神は東方の方位神であり、春は東方から来るためです。大理古城では太歳廟を春牛寺と俗に呼んでいました。泥牛は最後には大砲で吹き飛ばし、首が南に向くと旱魃に注意し(南方は五行説の火に属する)、北に向くと水害(北方は五行説の水に属するため)に注意するという、一年の天候を占うことも行われていました。打春牛の方法は、各地で独特の風習もありました。当日晴れだとその年は豊作で、雨が降ると凶作であるとする地方もあり、農事を占う意味もありました。
かつては農民が使う暦書の表紙には、かならず春牛の像がありました(図6・図7・図8)。
図6「春牛図」陝西省西安
図7「春牛図」貴州省台江
図8「春牛図」山西省臨汾
この春牛は、いまでも広東地方や香港などの通書と呼ばれる暦書に掲載されていますが巻頭と巻末の2カ所で絵柄が違います。巻頭のものは今年の内容を表し、巻末は来年の内容を表し、各年の天気・降雨量などを干支や五行などの情報に従って提供し、農事のありかたを占うものです。大理地方の鶴慶県では、春牛は牛衝尾村という村で造り、県内の商工業者たちとともに銅鑼を打ち鳴らし、爆竹を鳴らしながら県城に入り、春牛を役所の大堂に供えました。春官に扮した人物が鞭で春牛を叩き、「一打春牛頭、大老爺昇諸侯、二打春牛尾、大老爺喫豚腿」(一に春牛の頭を打つと、知事様は諸侯に御出世遊ばされ、二に春牛の尻尾を打つと、知事様は落ちぶれて豚の足を召し上がる)などと滑稽に唄を歌ったのだそうです(楊鎧『蹄印拾花』1991年、101-102頁、雲南民族出版社)。
かつて東アジアではベトナムでも日本でも新年とは農暦の正月のことで、中国語では「春節」(チュンチィエ)と呼ぶように、春を迎えることが一年の始めを意味していました。
もともと牛は、このように春を迎える際にはたいへん大事な役割をもつ動物だったのです。



