保山は、明代には屯田政策の一環として揚子江流域などからの大量の軍民が移住していますが、市、区政府所在地の永昌鎮(以前の龍泉鎮が2001年改名された)を中心とした保山盆地の市街部周辺はほぼ漢族の居住者です。村落は明代以来移住してきた軍民の営所であったところが多いです。その名も何々営、何々屯などという名前が多いことも名残です。賢妻村などという村もあり、そこに嫁いだ奥様はさぞかしプレッシャーがあることでしょう。


明代には、この街は騰衝(現騰衝)などのビルマ国境沿いの前衛の地を除けば、実質中国の西南地方の一番端の漢人の街といえます。たとえば雲南南部の元陽、思茅といった漢人の根拠地と同じです。


ここから怒江(サルウィン河)を越え、河の西岸に広がる4000m級の高黎貢山の山脈を越えると、タイ族の人々が住む別天地が広がります。


笑顔の龍眼売りの青年



そこにはビルマとの交易路の途上にあって、騰越とか、いまのビルマのバモーである新街などの漢人の根拠地があるほかは、少数民族の天地、「夷方」と呼ばれて、浮島のように点在する漢人の根拠地は「漢朝地」と呼ばれていたのです。


さて保山は街の北側にある太保山の麓のながらかな斜面にあります。太保山には道教の最高神である玉皇大帝を祭祀する玉皇閣、雲南遠征をした諸葛孔明を祭祀する武侯祠などがあり、街を見下ろすように守っています。このほか、五郎廟などと呼ばれる一本足の山の神様──祟り神としても怖れられている神、五通神ともいう──を祀る珍しい廟が今日でも残ります。そういうところはいかにも漢族の街という雰囲気です。


街全体はコンクリート建ての新しい建物ばかりですが、ところどころ土壁の伝統的な民家が残っています。屋根瓦は黒瓦とは限らず、一部に白瓦を用いて白く囲む家も多く見られます。


古い民家を改造した老人協会のなかは麻雀に打ち興じる市民で日がな賑わっていました。

サルウィン河沿いで採れる龍眼やらマンゴーやら、市場は果物で溢れていて、南国情緒もある街です。龍眼は、半キロわずか一元、状態のよいものでも一房10元という安さでした。


そうして、街の中にもいまなお古街の路傍に、おどろおどろしい民間信仰の神像を印刷した版画を売る屋台があります。