保山


保山は瀾滄江と怒江に挟まれた広い盆地です。

保山はかつて永昌といいました。この地名は後漢にこの地に郡がおかれ、名目上中央朝廷の統治下に置かれて以来の名前です(永平十二年・西暦69)。以来中央朝廷の辺疆民族支配の拠点として発展しました。


魏晋南北朝の時代から、この地のことは多少は漢人たちの社会に知られていたようです。とくに瀾滄江流域の瘴癘(いまのマラリアに相当する病気)は、古来より有名で、すでに干宝『捜神記』巻十二に「鬼弾」として記されています。



「漢の永昌郡の不違県に禁水という川がある。水に毒気があるからで、十一月と十二月は渡ってもまず大丈夫だが、正月から十月までは、渡ってはいけない。その間に渡れば病気になって死んでしまうのである。水の毒気のなかに悪いものがいて、形は見えないが声らしいものを出す。そして水中からなにかをぶつけ、それが木に当たれば木は折れてしまうし、人に当たれば傷つけられる。土地の人々はこれを鬼弾と呼んでいる。だから、郡内に罪人が出ると、この川まで連れてきて護岸工事をさせるのだが、十日もたたぬうちにみな死んでしまう」(竹田晃氏訳『捜神記』平凡社、1964年)


明末の書である劉文徴『滇志』巻之三十一「霊異」「雑志」は、「瀾滄江は順寧県(今の臨滄地区鳳慶県)の東南四十里にあり、毎年五、六月になると、河に物(霊的な得体の知れない「もの」の類)が出て、黒いこと霧のようで、触れるとすぐに死んでしまう。光ること火のようで、音は木を折るか岩が割れるかのようである。あるいはこれを瘴母という」と記しています。水中から生じる毒気が盛んなことを記していて、この妖物が瘴癘の原因物であるという妖怪じみた病気の解釈です。


この地は、農業を主産業とし、稲作を中心にした二毛作をおこなっていますが、養蚕なども行っています。


街にわずかに残る伝統民居

伝統民居 2