KY─日本の空気はよほど流動的らしい。濃淡ばかりではなく、いつのまにやら読解可能になっているのである。
日テレで始まったドラマ『斎藤さん』「空気なんて読まない」というキャッチコピーですが、素晴らしいです。もっともそれがなにかのイデオロギーの権化であっては困るのですが。
「空読めない」奴に、辛く当たってはいませんか? 評論家の内田樹氏も最近ブログでKYの心性について批判されています。
KY─物理学者によれば、空気が解読可能であるという根拠は皆無である。
ちなみに、ちゃんと物理学者に質問した結果です。
新キャラクター登場─「空気読三」です。
姓は「空気」、名は「読三」。東京都台東区東上野に下宿。鹿児島県指宿市生まれ。その場の空気を読もうと必死に身構え、必死に解読に精を出す。そしてそのことによってその場の人々から煙たがれるのです。彼は結局希代の世直しヒーローになるのでした。
あるモラル─朝青龍を輸入したのは我々日本人だ。だから朝青龍を土俵から排除してはいけない。
モンゴル人に今の日本人に実現不可能な「ますらおぶり」を求めたのですから、その責任はきちんと我々が負いましょう。
私小説─日本には「下には下がいるぜ」という自信を読者に与えるための文学がある。
「ここまでさらけだしました」という芸は芸として成り立つだろうかというところが問題なのです。そこにうそはないかもしれないけれども、気味悪さや後味の悪さは隠せません。「心の底から軽蔑しています。こんな奴だけにはなりたくないです」。作中人物の醜怪さや、無様さが極限にまで具現化され、その結果、読者が共感を拒否することによって、はじめて作品は陳列品のように読者から切り離されて作品として成立するのではないでしょうか。なぜならそれは作家の展示標本のようなものだからです。ある芥川賞候補作品について。