南波照間島─列島の最末端から表象される幻影肢。


八重山の島唄歌手、大工哲弘さんの『蓬莱行』というアルバムを買いました。「奇妙な果実」という言葉がピッタリな、きわめて錯綜した内容を持つジンタソングのこのCDについては、またの機会にお話ししますが、ケースを開けて青、赤の二枚組のCDケースをみたとき、私は驚愕したのです。そこにはexo-Paipatirohma書いてあったのでした。私は一瞬目を疑いました「蓬莱行」という東方海上の不老不死の仙人が住むといわれる仙島への旅行を指すこのタイトルの英語は、「南波照間島への逃避行(エクソダス)」を意味していたからでした。



南波照間島とは、日本列島ないし琉球弧の最末端から表象される幻影肢に他なりません。

日本の最南端、波照間島の人たちは、さらに南の海の彼方に南波照間島という島があるという信仰があるのです。波照間島は最南端ではないということになっています。



波照間島は、パティローマ、つまり「果て(ハテ)の珊瑚礁(ウルマ)」を意味します。自分たちの島が琉球弧の島々のなかで、末端としての語源を担わされていることに、受け入れがたい気持ちをももっていたのかも知れません。



しかし、このような夢の島伝説は、琉球弧の人々にとっては、富(ユー)の根源でもあり、死者の国でもあるような、水平線向こうの根の国、ニライカナイの信仰にも裏打ちされていることは間違いありません。



ニライカナイは東の海の果てにあるとされますが、それが架空の島として想像されることもありました。その島の名前は大東島(フウアガリジマ)というのです。しかるにその名は本当に発見されるに至ったわけです。1543年 スペイン人、B・デ・ラ・トーレが大東諸島を発見しましたが、東の海の果てにあるという観念上の島が、本当に出現してしまったという点で、大東島は興味深い事例です。しかも、ニューギニア近海から長い年月をかけてえっちらおっちらこの島はやってきたのです。日本列島に年に7㎝ずつ近づいているそうですが、大東諸島は本当にやってきた島、富(ユー)の島なのでしょう。



波照間島に話を戻します。幻の島の伝承には、南波照間島の伝承だけではなく、他にもあり、たとえば、「ペーヌシマ」(南の島の意味)の伝承があります。永積安明氏によると、ペーヌシマは、波照間島から近く、夕方には島影を見ることが出来、炊事の煙が見える近さというのです。ペーヌシマには「石の門」をくぐって行くとされ、しかも島人が波照間島に小豆などを盗みに来たとも言います。豪傑の女性「ピタブパー」が、海に機織と鍋を投げ入れたところ海が荒れ、それ以来島は見えなくなった(永積安明「南波照間島―沖縄離島の構想」『世界』403号、1983年)。


また、「スネ」の伝承もあります。石垣繁氏によると、「スネ」とは、「海中の暗礁」のことです。波照間島の沖にはいくつか「スネ」があり、そのうちミーヌパー(巳、つまり南東南方)に6、70km行った地点の大きな「スネ」は、地殻変動により沈んだ「南波照間島」だとという伝承もあります(石垣繁 「民話の系譜─パイパティローマ説話の世界観」八重山文化研究会編『八重山文化論集』第3号、ひるぎ社、1998年)。


日本列島の末端としての南波照間島は、しかしながら現実存在するとされていた以上、新天地、ユートピアとして島民の出奔を促すものでもありました。


薩摩支配下に置かれた琉球王朝は、琉球王国の支配下にあった宮古・八重山の島々の住人に対して、過酷な税収を行わなければなりませんでした。それが、一定の年齢になると、その者に税を課す人頭税です。1637年から1903年の300年近く、この過酷な収奪はつづきます。その税の重さは、与那国島では、人間を田に追い込み、溢れた者を殺したという「人桝田」(トゥングダ)の伝承に語られています。


実際南波照間島を目指した記録としては、次のようなものがあります。


『八重山島年来記』には、1648年に波照間島平田村の島民40~50人が重税から逃れるために大波照間島(南波照間島と同じ架空の島)に渡ったという記述があります。


また、波照間島の伝承ではヤグ村のアカマリという男が、税を取り立てに来た役人の船を奪い、村人を連れて南波照間島に向かったとの伝承があるとのことです(柳田國男『海南小記』 1925 年)。


池間栄三著『与那国の歴史』(1959年、池間苗個人発行)には、与那国島の比川集落の人々が南方にある楽土ハイドゥナン(南与那国島)に向かって逃亡したとしています(13~14頁)。


このような出奔者が実際にあったことが、人頭税の時代の南の島の人たちが、「より南の他の島」への憧憬と期待をもっていたことの証といえましょう。


                      (その2につづく)