読書メモ:「みちの島」─『日本残酷物語』第二部

「忘れられた土地」の書く十島村と三島村─その2


「悪疫」


一番恐ろしいのは悪疫の流行でしょう。一度悪疫が流

行ると島の半数以上が命を落とすことも珍しくなかっ

たそうです。

三島村の一つ、硫黄島の悪疫流行の歴史は以下の通り

です。


延享年間(1744から1748)─疱瘡が流行。380

の島民の半数が死亡。


天保四年(1833)正月、腸チブスが流行。死者3

0人あまり。


安政六年(1859)、コレラの流行 30人死亡。


明治十三年 疱瘡の流行、17人死亡。(0)


硫黄島は、その名の通り硫黄を産する島です。この硫

黄を買い付けに来る外来の商人のなかに病人がいると、

病気が島内に感染することになります。

十島村の場合でもこのようにいわれています。

「だから十島村の人々は外から悪疫がもたらされるこ

とを極度におそれ、外来者がおとずれたあとで、かな

らず一村あげて村はらいをしたといわれる」(70)

民間療法としては、赤痢のときには米の粥を食べれば

病気が抜ける、コレラや赤痢にはお灸がよくきくなど

の対処法が信じられていたそうです。

宝島(十島村・トカラという地名は本来宝島と小宝島

を指す)では、よそから船がつくと、その日か翌日に、

戸が仕事を休み、飯を藁に包み、それぞれ門口にか

けて病気祓いのまじないとし、もし船に病人がいた場

合、三日間仕事を休み、各戸一合ずつ米を出して島の

神に祈願したそうです。


ときには船を追い返すこともあったこれらの島々は、

子供たちの作文はなにを書かせても船のことばかりと

いう態にもかかわらず、外来の者を警戒し、歓迎せず

に忌み嫌う心性があるということになります。


「みちの島」にもかかわらず、交通機関の発達ととも

に、かえって飛行機や船に素通りされ、国ではなく、

村営の連絡船に頼らねばならないという不条理や、悪

疫や人口流出による人口減少と村の文化の衰退、つい

には臥蛇島(十島村)のように、島民が離島せざるを得

ない状況、など、「みちの島」の離島苦は並大抵のも

のではないことが解ります。

外来のカツオ漁船に漁場を荒らされ、海ではなく、島

内の土地での生産に活路を見いださざるを得ない状況

にもかかわらず、各島それぞれ生産を阻害する要因が

数多くあります。竹の根がはびこり、焼き畑に頼る竹

島(三島村)や、悪石島(十島村)などのネズミの跳梁す

る環境、水が豊富で開墾可能な土地も広い中之島(十

島村)でさえもハブ・ヤマビル・蚊・アブの害は多く、

そもそも台風が年に数回でも来ようものならば、一回

の台風は四、五日から一週間も停滞し、農作物は台風

の運ぶ海の潮と、大風のためになぎ倒され、枯死する

のです。


外来の者を警戒する心情は、たとえば雲南省西北部、

梅里雪山の麓に生きる村民が、自存する生態環境の調

和と均衡を壊す存在として外来者を語る伝承をもって

いたことなどにも現れています。

同じ雲南省西北部のミャンマー国境のイラワディ河上

流域、独龍渓谷に居住するトールン族を1960年代に、

社会調査のために調査隊が訪れたことがありました。

雲南少数民族の神話伝承を研究されている雲南大学の

李子賢先生からきいた話ですが、このとき、何日もの

山越えで、李子賢さんの先生が、激しい熱に冒される

病気になりました。

ところが、現地の村民たちは病気の先生に魔物がとり

憑いていると考え、畏れ、村に入れてくれず、道に置

き去りにするようにいったといいます。このときは李

子賢先生たちがとりなして、置き去りだけは防ぎ、李

子賢先生が病人を負ぶって旅をつづけたそうです。

しかし、置き去りにするという処置は、現地に病気の

感染を防ぐという意味では故なきことではないかもし

れません。