読書メモ:「みちの島」─『日本残酷物語』第二部
「忘れられた土地」の書く十島村と三島村─その1
鹿児島から奄美・沖縄に向かう海に浮かぶ島々は、俗
に「みちの島」と呼ばれています。これらの島々は十
島村の行政区域に入るトカラ列島、つまり飛び石のよ
うに十四の島が点在している島嶼地域と、大隅半島の
沖合に浮かぶ三島村の行政区域に属する三つの小島、
黒島・竹島・硫黄島があります。これに屋久島・種子
島・口永良部島を加え、奄美大島を入れて、「道の島
」鹿児島~奄美ルートがあるといってもいいでしょう。
これらの島々は日本人にもっとも表象されにくい土地
です。たとえば、熊野がもつ自然の豊穣さと、歴史伝
承や信仰の豊かさが、ある意味で日本らしさや、日本
の精神風土の原点として賞賛されるのに対し、それと
相反する困難さと、無関心に置かれた「忘れられた土
地」であるといえます。これらの土地に注目すること
なしに日本の風土を考えることは、日本をあまりに単
純化して考える恐れがあることはいうまでもないでし
ょう。
先日、高校の同級生だった文芸評論家の助川幸逸郎さ
んと沖縄・奄美料理屋で話をしていて、助川さんが熊
野を小説の背景に持つ中上健次が、言語が豊饒なのは
当然で、むしろ東北の貧困さなどをもっと考え直すべ
きではないかということを言っていましたが、私はそ
れならトカラ列島も熊野の対極だというようなことを
言って、それで今回十島村と三島村について書いてい
るのです。
ともあれ、これら「忘れられた土地」の非表象性を問
題にすることの必要性は、今日にあってなお強調され
るべき根拠を失っていないと考えます。
トカラ列島や三島村は、波照間島、与那国島といった
日本最南端、日本最西端の島がしばしば周縁性が強調
され、日本列島を表象する際の不可欠な「辺境」とし
て登場しますが、トカラや三島村はそのような辺境性
すらもっておらず、端的な無関心にさらされていると
いえます。ただ唯一三島村の黒島については有吉佐和
子の小説『私は忘れない』があり、映画化もされてい
ることを付記しておきます。
いずれにせよ、これらの「みちの島」は、南島に対し
てしばしば抱かれやすい豊穣さというイメージとも対
極的で、「南島文化論」的にみても、その一般論化を
防ぐに不可欠な「場所性」をもっていることも強調す
べき点だと思います。
先日稲垣尚友著『吐火羅国』を取り上げ、列島の人々
の生活を一瞥してみました。この後トカラを知るため
の本として、村教育委員会の手になる『十島村誌』(十
島村誌編集委員会編、十島村、1995年)、長期取材の記
録である『美女とネズミと神々の島─かくれていた日
本』(秋吉茂著、河出書房新社、1964年) 、また 研究書
として『トカラ列島の民俗誌』(下野敏見・十島村役場
、第一書房、1994年)などを随時取り上げるつもりです。
今回は『日本残酷物語』第二部「忘れられた土地」(下
中邦彦編、平凡社、1960年)から、「みちの島」の一章
を、『吐火羅国』を補足する意味であげておきます。
「カツオ漁」
トカラ列島は本来豊饒な漁場に恵まれていました。
かつて旧藩時代、カツオ漁が盛んで、鰹節が産業とし
て栄えていたそうです。ところが、九州から来る遠洋
漁業の船に漁場を荒らされ、かつて一年間に一万八千
尾も釣り上げていたのに、その20分の1まで減少したそ
うです。大規模な内地の遠洋漁業に勝てず、唯一の換
金物を失った島は、「海に背を向けて生きる」という
矛盾したかにみえる生活をせざるを得なくなります。
「島の人々は〈水属の都城〉といわれた海にかこまれ
ながら、海に背を向けて暮らさねばならないのである
」(68頁)。
「火山島」
諏訪之瀬島(十島村)文化十年(1813)に火山大爆発が発生し、
以来無人の島になっていたことがあります。村が2個所、
寺も2個所、戸数100戸以上が一朝にして、灰の下に埋も
れます。その後、明治十七年にあらためて爆発が起こり
ます。
「ネズミの害」
「みちの島」は、ネズミの島でもあります。
このうち、ネズミはササに実のなる年に繁殖し、島を
食い尽くすそうです。
黒島(三島村)では、1949年、沖合を魚群が徹るような
物音がしたが、それは魚ではなく、ネズミだったので
す。ネズミが海を渡って大量に上陸してきたのたそう
です。想像すらできません。
「足でも泳ぐが、尻尾を使ってなかなか上手に泳ぐそ
うです。奴らはおたがいに仲間の尻尾をくわえ、隊伍
を組んで泳ぎ渡ってきました。」(65頁)
(その2につづく・全2回)