身近なケンミンショー -5ページ目

身近なケンミンショー

日常の生活範囲の中で見つけた身近にある都道府県や都市にまつわるお話しをゆるーく綴ります

                    1


 熊本県は九州本島の中央にある。
 県北、県央、県南、天草と4つの地区に分けて説明されることが多い。


 県北は海岸べりの玉名、そして内陸になって菊池、山鹿、阿蘇市などで構成される。
 云わずと知れた阿蘇山とそのカルデラを含む自然豊かな地域である。

 県央は熊本市を中心とする。
 熊本市は加藤清正、そして細川氏の城下町として栄え、今も尚、県の中心部である。


 県南は八代市、水俣市そして山間部の五木村や球磨地方の人吉市で知られる。
 あまり良くは知られてはいない神秘性があるところである。


 そして天草はご存じ天草四郎の天草諸島であり、行って見たいと思うが中々その機会がないところである。


 熊本県は中世から明治の中ごろまでは九州の中心としての機能を持っていた。
 その分、多くの戦乱にも巻き込まれているのではあるが…。


 明治時代には熊本鎮台が熊本城に置かれ陸軍の九州総本部であった。
 西南戦争で、西郷隆盛率いる薩摩軍に攻められたことは良く知られている。
 薩軍を防ぎ切った司令官は土佐藩出身の谷干城(たにたてき)であった。 
 いわゆる維新派の同士討ちである。


 しかし、北の福岡県に博多港が整備されたり、官製の八幡製鉄所が作られたりすると九州の中心地は福岡県に移って行ったのであった。


 熊本ケンミンは活動力旺盛である。
 女性演歌歌手では、水前寺清子、石川さゆり、八代亜紀、原田悠里などが良く知られている。
 女子プロゴルフでは、不動裕理、古閑美保、上田桃子、有村智恵など、チャンピオンも多数出ている。
 そして不動や古閑の先生の清元登子(きよもとたかこ)も熊本出身である。


 女性ばかりになった。
 少し反省して、男性では打撃の神様と云われる川上哲治、ソフトバンクホークスの秋山や松中などがいる。

 またタレントでは、現在良くテレビに顔を出す、くりぃむしちゅー 上田晋也、有田哲平がいる。
 ウッチャンナンチャンの内村光良、次長課長の井上聡は熊本生まれである。

 これらの人たちは、かつてあるいは現在、我々一般市民を楽しませてくれる(くれた)人たちである。


                    2


 さて、熊本名物に急ごう。
 最近、熊本発で良く目にするのは「風雅巻き」という菓子である。

 大豆、ソラマメ、カシューナッツ、ピーナッツ、ピスタッチオなどを山葵や醤油で味付けし、それを有明産の板海苔で手巻きした菓子である。

 手作業ゆえに値段は少々高めであるが、新感覚で美味しい菓子である。
 熊本市内で創業し、全国のデパートなどに着実に販路を広げている菓子である。


 熊本にもラーメンがある。熊本ラーメンと云う。
 豚骨ラーメン発祥の久留米市から県北玉名市を経由し熊本市に伝わったラーメンと云われている。

 スープは豚骨だけでなく鶏ガラも入れ、豚骨の臭みを取ったことと、スープにチップ状にした「揚げにんにく」やマー油を加えることが特徴である。
 また麺は、低加水の中太のストレート麺で、堅めに茹で上げるのが特徴である。
 
 熊本ラーメンは3人の男たちによって始められたと云われる。
 台湾からの留学生劉壇祥と木村一、山中安敏である。


 劉壇祥は熊本大学を苦学の末卒業し、甘味料の製造で財を成し、それを元手に苦学の時に助けられた木村や山中とともに不動産業を始めた。
 当初は商売は順調に進んだが、昭和26年に北部九州を襲った集中豪雨により不動産業は頓挫、新たなビジネスを探した。


 ある時、豚骨スープのラーメンを久留米にて開発した「SQ」の玉名店をたまたま訪れた。
 そしてその味に感動して、ラーメン店を始めることになったのである。


 味の研究を始め、何とかこれで行けるというレベルに達したので、先ずは木村が「MB軒」を熊本市内に開店し、次に山中が「KMRSK」を開店した。
 劉は少し遅れて「KK」の創業に加わり、調理を務めていたが、後にに独立して「AS」を創業した。
 そしてニンニクをラーメンに入れるという手法は「KK」時代に劉(後に重光と改姓)が開発したものと云われる。


 熊本ラーメンの発祥店と云われる店は幾つかある。
 上述の店に加えて「KT」や「KD」と云う店が知られる。


 その他にも、 くりぃむしちゅーの2人が高校時代によく通っていたと云われる「DK」が知られている。
 この店は通販や土産物や出張販売にも力を入れている。


                         3


 最後は焼酎である。
 熊本の球磨地方の球磨川流域で醸造される焼酎は球磨焼酎と云う。
 米を原料として醸造される焼酎で、焼酎の原点でもある。


 室町から戦国時代に掛けて球磨地方や薩摩の国では焼酎造りが始められた。
 もちろんのこと、原料は米である。


 球磨地方はこの土地の豪族であり鎌倉時代からの地頭であった相良氏が、豊臣秀吉の時代から江戸時代の末までも支配者であった。
 文禄慶長の役で朝鮮半島に出兵した相良氏は、その帰りに焼酎の醸造技術者を連れて帰った。
 

 球磨地方ではその技術者により焼酎醸造法が広められ、江戸時代の初めには藩公認の業者は20軒と云われる。
 そして米で作られる焼酎はこれらの蔵だけが販売権を持つことになり、農民たちは麦や雑穀の自家製焼酎で我慢させられた。

 またそのころから薩摩では甘藷(さつまいも)が栽培され始め、焼酎も芋を原料とする方向になったが、球磨地方では、米焼酎が醸造され続けたのであった。


 明治時代になって、醸造所は届け出制になり、約60軒の企業が出現したと云われる。
 そして大正時代には精米された白米が使用され、麹も黄から黒、そして白麹使用へと変わってきている。


 しかしながら、戦後直ぐに米不足となり、やむを得ず原料は麦を使い、焼酎造りを5年間続けたのであった。
 そして現在に至っている。


 現在は醸造所28軒が組合に加入している。
 それぞれ特徴のある醸造所であり、米焼酎のルーツ、いや焼酎のルーツである。

 尚「六調子」とは踊りの調子のことだそうである。