日本も豊かになっていくに従い、〇〇の日というのが

増えてきた。

 

母の日も昔からあったのかどうか知らないが、

私が子供のころは、戦中、戦後で疎開先で住むところもなく

食べるものっもなかった時代だった。

 

横浜でサラリーマンをやっていた父も田舎では畑1枚

持っていないので生活が大変だった。

 

そこで借地にバラックを建て雑貨屋を始めた。

 

両親も小学生の私も、必死に働いた。

 

私も夕方になると店の商品の納豆をかごに入れて

近所の家を回って売りに行ったりもした。

 

東北への疎開の時も手荷物の制限があり、家族全員

着の身着のままで疎開した。

 

それでも母親は着物だけはたった1枚持って疎開できた。

 

田舎の夏祭りの時、村の皆さんは一張羅の着物を着て

村をぶらぶらしていていた。

 

私は母とぼんやりとそんな風景を見ていたが

母がつぶやいた「あら、あれ私の着物だわ」と。

 

母のたった1枚の着物が物々交換で、家族の食料に

変わっていたのを知りました。

 

その時の私の気持ちは今も忘れられない。

 

自宅通学で大学まではいかせてもらったが、

就職先が田舎にはなく、関東に就職した。

 

当時は土曜日も休みではなく、連休などほとんど

なかった。

 

簡単に田舎に帰る機会も無かった。

 

たまに帰っても仕事も忙しく1~2泊で戻るような

帰省だった。

 

帰るときは鉄道の駅がある町まで、タクシーを呼んで

乗るのだが、母はいつものもんぺ姿に白いエプロン姿で

タクシーが見えなくなるまで手を振っていてくれた。

 

その時は、本当に後ろ髪惹かれる思いというか、自分は

田舎に残らなくともいいんだろうかという罪悪感のような

ものを感じて、とても寂しかった。

 

その後母が上京した時に、私と妻で東京をほんの一部

案内したり、妻が鎌倉へ行ったりしてくれたが、

本当はもっともっと母の希望のところへ連れて

行きたかった。

 

当時は高度経済成長時代で私も会社も休めず

もう少しせっかく上京した母との生活を楽しみたかった。

 

今は亡き母に対してはただ申し訳ないという懺悔の気持ちで

一杯だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お母さんが喜びそうなことは?

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