一湾生の備忘録 その3 自宅付近の様子
我が家
我が家は、瓦屋根葺き長屋の一角で、<br/>
住居兼事務所で、向かって左隣が散髪屋、<br/>
右隣が水利組合事務所、次が漢方薬店だった。<br/><br/><br/><br/>


我が家は、駅の真正面にあり、<br/>
距離で100メール足らずだ。<br/><br/><br/><br/>


駅舎
 小さいながらもコンクリート造の
立派なものだった。
理由は、近くに“錦水(きんすい)”と言う
油田があり、そこを皇族方が見学に来られるので、
失礼のないように造ったようだ。


付近の建物

警察官駐在所
建物の中央が事務室
道路から向かって左側が内地人巡査の宿舎で、
右側が本島人巡査の宿舎。
それぞれ三八式歩兵銃を所持していた。

公会堂
四六時中開放されていた。
卓球台があった。

庄役場
内地の村役場に相当。

鉄道職員の宿舎
駅の前の左側に駅長の宿舎。
宿舎の前は、コンクリート造のテニスコートの半面。
本島人たちが、切り干し大根をつくっていた。

駅員や保線作業員のものが、数件あった。
水道が無かったので数メートル程高い貯水槽に、
駅夫が手漕ぎポンプで水を汲み上げていた。
それを水道管で給水していた。


映写会
駅前の広場で、時々映写会が催された。
主催者が誰だったのか、内容などは覚えていないが、
おそらく主催者は、郡役場であっただろう。
側に警察官駐在所があるので変な事はできない。


次高山
駅の向こうには、台湾山脈の次高山が見えた。
たまに陸軍のC2型輸送機が後部を下げて、
台北方向飛んで行くのが見えた。


台湾南部の街の塀東には陸軍の飛行場があった。
国民学校の修学旅行で、塀東に行った。


汽車で川を渡るときに、陸軍の飛行機が、
鉄橋の下をくぐって飛んで行ったとか、
どうとか、児童の間で、他愛のない論争があった。



父親から銃の打ち方を教えて貰った。
銃床をしっかり肩に当てること。

そうしないと銃の発射の反動で、肩を傷めるとの事だった。
良い父親であった。
<br/>陸軍一等兵 勲八等。
金鵄勲章は、大正9年のシベリア出兵の
時の通訳としての功績によるものだそうだ。


竹南小学校に入学<br>
私は、竹南小学校に入学することになる、
竹南は、私の住んでいる造橋の隣町で鉄道で、
一駅北側にある。
これから終戦まで9年間の、汽車通学の始まりである。
「一分遅れて次の汽車」

当時は次の普通列車は、2時間後にしか来なかった。