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第二国民学校とは、台湾人公学校の児童が初等教育を受ける学校だ。<br>

 内地は小学校。戦争中に改称された。<br> 、  

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新竹中学校の放課後は、新竹駅までは繫華街を通るので楽しかった。 <br>

ドラッグストア、派手な色の棺桶を並べている店、内地人が経営する玩具店、<br>

 右側に、州立の新竹病院。<br>

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駅まで群れて歩くのは“南部汽車通学生 <br>

リーダーは、山水雅俊。あだ名は”がびん”。 由来は名の音読み。<br>

馬場洋一、後は忘れた。苗栗(びょうりつ)まで帰宅する。<br>

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本島人で、庄長(村長のこと)の三男も同級生だったが、記憶にない。<br>

 戦後20年ほど経って台湾を訪れた時に会ったが、<br>

、コンサル業を営んでいるとのことだった。 相変わらず温和だった。<br>

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  中学校は、4年生、5年生の全員と3年生の約半数が、<br>

 東海岸の「通宵」(つうしょう)の海岸警備に行っていた。<br>

 身分は分からない。 <br>

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 食料事情の悪かった時代だったので、<br>

銀飯を食えるのかなと思ったりした。<br>

 もう1週間もしたら言われて直ぐに終戦になった。 <br>

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「終戦」<br>

  終戦の玉音放送は、造橋の自宅のラジオ放送で聴いた。<br>

 雑音が入り聴き難かったが、戦争は負けたことが分かった。<br> 

これが天皇の声かとおもった。甲高い声だった <br>

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[授業]<br>

 

 夏休み明けの授業のことは、覚えていない。<br>

 午前中は内地人、午後は台湾人となったが、<br>

 駅の改札口には、台湾人の生徒が待ち構えていて<br>

 内地人生徒に暴行を加えた。 <br>

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 これではいけないと思い、改札口は通らず駅の外に出ようとしたが、 <br>

そこにも台湾人生徒がいて、腕立て伏せの格好にさせられ、足蹴にされた。 <br>

 

台湾人生徒を馬鹿にしたことも、いじめた事も無かったので悔しかった。 <br> 

学校には行かなくなった。