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出生<br>
  私は、昭和5年(1930年)5月 <br>
台湾の基隆市で生まれた。<br>
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  父親は私が生まれたのを機会に<br>
漁船で働くのを辞めたようだ。<br>
「海で死ぬ訳にはいかない」と言って。<br>

記憶に残っているのは台北に移ってからだ。<br>
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台北
  自宅の住所は御成町<br> 
生活は苦しかったようだ。<br>
母親が公設質屋に通っていた。<br>
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公館<br>
  大通り道向には何処かの公館があって、<br>
毎朝入口付近を掃除していた。<br>
</p>
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公園<br>
  近所には公園があって、<br>
乃木大将母堂ゆかりの碑が建っていた。<br>
本島人(台湾人)達がアフリカカタツムリの<br>
飼育箱を持ち寄って見せあっていた。<br>
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北投温泉<br>
   台北の北に北投と言う温泉の出るところがある。<br>
其処には官公庁や企業の寮があって賑わっていた。<br>
父親に連れられて行った。<br>
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  湯船の底がヌルヌルしていたので足を滑らし、<br>
溺れかかったが、父親に助けてもらった。<br>
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三板峡<br>
   公園の傍を流れる川の向こう岸は、三板峡と呼ばれ、<br>
火葬場があり2本の煙突から煙が立ち登っていた。

一湾生の備忘録 その3 自宅付近の様子
我が家
我が家は、瓦屋根葺き長屋の一角で、<br/>
住居兼事務所で、向かって左隣が散髪屋、<br/>
右隣が水利組合事務所、次が漢方薬店だった。<br/><br/><br/><br/>


我が家は、駅の真正面にあり、<br/>
距離で100メール足らずだ。<br/><br/><br/><br/>


駅舎
 小さいながらもコンクリート造の
立派なものだった。
理由は、近くに“錦水(きんすい)”と言う
油田があり、そこを皇族方が見学に来られるので、
失礼のないように造ったようだ。


付近の建物

警察官駐在所
建物の中央が事務室
道路から向かって左側が内地人巡査の宿舎で、
右側が本島人巡査の宿舎。
それぞれ三八式歩兵銃を所持していた。

公会堂
四六時中開放されていた。
卓球台があった。

庄役場
内地の村役場に相当。

鉄道職員の宿舎
駅の前の左側に駅長の宿舎。
宿舎の前は、コンクリート造のテニスコートの半面。
本島人たちが、切り干し大根をつくっていた。

駅員や保線作業員のものが、数件あった。
水道が無かったので数メートル程高い貯水槽に、
駅夫が手漕ぎポンプで水を汲み上げていた。
それを水道管で給水していた。


映写会
駅前の広場で、時々映写会が催された。
主催者が誰だったのか、内容などは覚えていないが、
おそらく主催者は、郡役場であっただろう。
側に警察官駐在所があるので変な事はできない。


次高山
駅の向こうには、台湾山脈の次高山が見えた。
たまに陸軍のC2型輸送機が後部を下げて、
台北方向飛んで行くのが見えた。


台湾南部の街の塀東には陸軍の飛行場があった。
国民学校の修学旅行で、塀東に行った。


汽車で川を渡るときに、陸軍の飛行機が、
鉄橋の下をくぐって飛んで行ったとか、
どうとか、児童の間で、他愛のない論争があった。



父親から銃の打ち方を教えて貰った。
銃床をしっかり肩に当てること。

そうしないと銃の発射の反動で、肩を傷めるとの事だった。
良い父親であった。
<br/>陸軍一等兵 勲八等。
金鵄勲章は、大正9年のシベリア出兵の
時の通訳としての功績によるものだそうだ。


竹南小学校に入学<br>
私は、竹南小学校に入学することになる、
竹南は、私の住んでいる造橋の隣町で鉄道で、
一駅北側にある。
これから終戦まで9年間の、汽車通学の始まりである。
「一分遅れて次の汽車」

当時は次の普通列車は、2時間後にしか来なかった。
 

一湾生の備忘録 その2 造橋の自宅付近の様子


造橋駅は、鉄道の縦貫線が台中線に分岐する
竹南駅の次の駅だ。


造橋は人口は定かではないが、
小学校も無い人口の少ないとところだった。
住んでいるたいる台湾人は、広東語を使っていた。



当時の初等教育制度は、
台湾人の子どもは、公学校で、
内地人の子どもは、小学校で教育を受けるようになっていた。


後に、小学校は第一国民学校に、
公学校は第ニ国民学校に改称された。




原住民の児童は”蕃童教育所”で行い、
教師は、駐在所の巡査だった。


”♫サヨンの鐘”はこれに基づいている。


公学校の授業は日本語で行い、教師は内地人だ。
授業受けていた児童は苦しかっただろう。


でも、当時の教育を受けた台湾人は、日本語は上手だ。

「勝っちゃんのお父さんは、陸軍一等兵だったね」とは、
近所の人台湾人のおばさんの言葉だ。


公共のた建物は、庄役場、警察官駐在署 公会堂 公学校の校舎の程度だった。


警察官駐在署の建物は、正面玄関から見て、
中央が事務所 左側が内地人の右側が台湾人の宿舎になっていた。  
巡査はそれぞれ三八式歩兵銃を所持していた。


私が住んでいた間は事件もなく、近所の屠殺場で処理された」
台湾人二人が棒で担いできた豚に、青い検印を、
ペタペタと押すのが仕事のように思えた。


内地人の私の年頃の男の子は居なかった。
公学校の校長の娘さんは居たが、
「男女七歳にて席を同じゆせず。」の時代だ。



友達は、必然的に台湾人の男の子だ。
いろいろと教えて貰った。
「長幼序あり」のようなことも言っていた。



私の家には、銃が3丁あった。
村田銃、外国製の中折れ式の銃 いずれも散弾銃の猟銃。
ドイツ製の空気銃。





父親の仕事は「台湾電力 造橋散宿所」
特別高圧電線路巡視が主な仕事。


巡視の時は猟銃を持って行った。
獲物は、山鳩 ペタコ(白頭)雀。


ぶつぶつ言いながら、母親は鳥の毛をむしった。
調理は父親がした。

「これらは、台北では値段は高いんだよ」とも言っていた。
私は雀の頭を美味しいと思った。

一湾生の備忘録 懐かしい台湾 その1 自己紹介 子どもの頃など

 

 

  私は、昭和5年(1930年)台湾の基隆市で生まれた。
だが、基隆市での記憶は全く無く、
記憶があるのは、台北市に家族が住んでからだ。


 住んでいたのは、御成町だったようだ。
通りの向こうには、外国の公館があって、
毎朝、門の前を掃除していた。


 母親はしばしば、公設質屋に行っていました。
生活は苦しかったのだろう。


 近くに公園があって、乃木大将母堂ゆかりの碑があった。
随分高いな~と、私は、思っていたが、
戦後台湾を訪問した時に見たが大した高さではなかった。
子供の目。




 台湾人の老人たちが、当時流行っていた、
アフリカかたつむり飼育の箱を持ち寄って、
見せ合っていた。


 川の向こうには、三板橋(さんぱんきょう)と言って、
火葬場があり2本の煙突からは、黒い煙が出ていた。


 台北市の北側に北投(ほくと)と言う温泉が出るところがあり、
企業などの寮がありました。

 私は、浴槽で足を滑らし溺れかかりました。


 暫くして、終戦により引き揚げるまで住んでいた、
新竹州竹南郡造橋庄造橋155番地に移った。





  自己紹介
昭和5年(1930年)台湾の基隆市にて出生。
終戦まで、新竹州竹南郡造橋庄造橋155番地に居住。

昭和21年4月 母の郷里
沖縄県八重山郡の竹富島に家族7人で引き揚げる。


学歴 
国立琉球大学短大部経済学科卒。


資格
電気主任技術者第弐種



※ 台湾で生まれ育った内地人を、「湾生」と言います。
 

 

 
     



 

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一湾生の備忘録 その3 自宅付近の様子
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我が家<br>
我が家は、瓦屋根葺き長屋の一角で、<br/>
住居兼事務所で、向かって左隣が散髪屋、<br/>
右隣が水利組合事務所、次が漢方薬店だった。<br/><br/><br/><br/>
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我が家は、駅の真正面にあり、<br/>
距離で100メール足らずだ。<br/><br/><br/><br/>
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駅舎
 小さいながらもコンクリート造の
立派なものだった。
理由は、近くに“錦水(きんすい)”と言う
油田があり、そこを皇族方が見学に来られるので、
失礼のないように造ったようだ。
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映写会
駅前の広場で、時々映写会が催された。<br/>
主催者が誰だったのか、内容などは覚えていないが、<br/>
おそらく主催者は、郡役場であっただろう。<br/>
側に警察官駐在所があるので変な事はできない。<br/><br/><br/><br/><br/><br/>
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次高山
駅の向こうには、台湾山脈の次高山が見えた。<br/>
たまに陸軍のC2型輸送機が後部を下げて、<br/>
台北方向飛んで行くのが見えた。<br/><br/><br/><br/>
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台湾南部の街の塀東には陸軍の飛行場があった。<br/>
国民学校の修学旅行で、塀東に行った。<br/><br/><br/>
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汽車で川を渡るときに、陸軍の飛行機が、<br/>
鉄橋の下をくぐって飛んで行ったとか、<br/>
どうとか、児童の間で、他愛のない論争があった。<br/><br/><br/>
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父親から銃の打ち方を教えて貰った。<br/>
銃床をしっかり肩に当てること。<br/><br/>

そうしないと銃の発射の反動で、<br/>肩を傷めるとの事だった。<br/><br/><br/><br/>
良い父親であった。
<br/>陸軍一等兵 勲八等。<br/><br/><br/>
金鵄勲章は、大正9年のシベリア出兵の<br/>
時の通訳としての功績によるものだそうだ。<br/><br/><br/>
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竹南小学校に入学<br>
私は、竹南小学校に入学することになる、<br/>
竹南は、私の住んでいる造橋の隣町で鉄道で、<br/>一
一駅北側にある。<br/><br/
>これから終戦まで9年間の、汽車通学の始まりである。<br/>
「一分遅れて次の汽車」<br/>

当時は次の普通列車は、2時間後にしか来なかった<br/>