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自賠責保険対応の顕示接骨院

顕示接骨院の日々の活動とPRを綴っています。

不要論とは言い換えれば必要論だという事を私的には考えています。
不要である事を気づき必要であるものを探求していくこと。

私が考える「開国不要論」の中で絶対的に攻撃であり、絶対的な自衛とは
それは日本には無かったものだと私は考えています。

第2次世界大戦の終戦はと尋ねると日本は8/15と回答する方が非常に多いです。
第2次世界大戦の終戦は見解の相違はありますが戦勝国では1945年9/2です。

その後、皆さんがご周知の「平和大国日本」というものが躍進を遂げ先進国入りを果たしたということになるのではないでしょうか?
しかしその平和は本当の平和だったのか?

それを考えることが提唱する「開国不要論」に続いていくのですが、
歴史が語るに日本の平和は「日米安全保障条約、日米地位協定、唯一の被爆国という考えによるものが大変関わっているという事をどれだけ深く我々が理解してきたのか大変に疑問です。

その「疑問が多い平和」を「平和」として捉えてしまっては平和の根幹が崩れてしまうのではないかと考えるのです。
そこで「開国不要論」を提唱し、その考えを起爆剤とし「平和とは何か?」を深く追求する事こそ、真の平和に繋がり、そしてそれが絶対的攻撃であり、絶対的自衛になる根幹になると私は考えました。
そしてその平和を維持する為には時代と共に強固な変革出来る構造を持つ思考こそが絶対的平和に繋がるかもしれないと考えるようになりました。
しかし絶対的な平和「そんなものは存在しない」只の理想なのかもしれないと頭の中で何度も駆け巡ります。
私の分限ではそんな事を考えてはいけないのかもしれないとも考えましたが、「人は生まれて死ぬまで」に何をし何を考えどう行動したのか?それを考えるといてもたってもおられず記載しております。

そこで私が今まで「絶対に必要であった」そしてこれからの日本に「不必要になるもの」は
「自衛せぬ平和」だと考えるようになり、その考えが「開国不要論」に至りました。

続いて「平和道」なるものを考えました。

「平和道」は「武士道」の影響を強く受ける考えであります。
「武士道」と聞くと皆さんは刀や戦や幕府などを連想するかもしれません。
しかし私が感じる「武士道」とは、それは道徳です。
今の日本に宗教は必要無いのかもしれません。
愛とか優しさも薄れ個人的に豊かになる事が大切なのかもしれません。
TPPの問題も踏まえ個人的に資本主義を勝ち抜き、日米同盟に基づく平和があれば何も問題は無いのかもしれません。

しかし私の「賽は投げられた」のです。

ロシア、中国、アメリカ、フクシマ、その時世界はどの様に動いているのか?
我々がメディアから受け取ってきた情報(9.11や地震や戦争、9条改正様々あります)が真実だったのでしょうか?
大疑ばかりで大悟には繋がる事はないのでしょう。

しかし「諦めることなかれ!これが人生か、よしもう1度」その言葉が自分を前進させています。
私は「平和道」を推進いたします。
抽象的な事を書いてきましたが、
この「平和道」の根幹を共に築きあげてくれる獅子が数多く立ち上がってくれる事を信じています。

あなたの頭上を「オスプレイ」が平然と飛んでいます。
ウクライナの次は我々かもしれません。
尖閣諸島の問題は実は日本と中国だけの問題なのかもしれません。
エネルギーは
社会保障は?
その時アメリカが助けてくれなかったら?
子供の為に出来ることはもう残ってないのか?

そんな他力本願の「平和」の道を通り抜けて振り返ることもない程の「平和」を考えたい。
「平和」ということを一生共に学んでいきましょう。
木を見て森を一緒に育てましょう。

勉強会毎日やってます。
心から「平和の煙」があがったらもう来るしかない。


「平和を信じるいけとしきみへ」




今回は真の不要論を提唱する為に断片的な考察で申し訳無いが、私の頭脳にも限界があるので私の主観的な要素だけで書き込む事とし、具体的な根拠と根幹は月中にも書き込む事とします。

真の不要論を提唱する中で1つだけ伝えなければならない事があるだろう。

それは「根底から疑え」という事である。

大疑が大悟という言葉の通り、全てを疑い、自分を洗脳する思考を抹殺しその上で新しい思想を構築していかなければならないということである。

それが真の不要論を提唱していく中で必然的に根拠を導く為の思考を築いていくことになるだろうと考える。

つまり私が提唱する不要論は

「開国不要論」である。

何をとんちんかんな事をと思われる事は十分に理解しています。

この詳細は世界情勢をあらゆる角度で網羅しながらその情勢の変革にあらゆる角度で対応していける「不要論」でなければならない。

そして繰り返すが私が提唱する「開国不要論」は絶対的攻撃であり、絶対的自衛である。

言い換えれば今まで日本が絶対的に必要としなかったものを受けれ入れる事であり、

絶対的に必要とするものを不要とする事なのだ。

それは一体何か?

それは。。。

私は今恐れている。

この先を具体的に発信する事を大きく恐れているが

自分の弱さ故に申し訳無いが次回のブログから慎重に報告していこうと考えています。
自然と遊離するバベルの塔は崩れる。

自分は精一杯頑張っていると昼夜惜しみ無く働いてきた。仕事の内容は自動車のセールスマン。
その中で夢と希望を共に語り合う伴侶を見つけた。

時間が流れる中で、徒歩で通いなれた道も車通勤になり、子供が出来た事がきっかけに住み慣れた団地もそれなりのマイホームになり、2番目の子供を授かり人生絶好調と感じずにはいられず、自分の功績を家族、社会とも認めてくれたという自負に舌鼓を打ちながら自分が好きなものを好きなだけ旨いものを幸せにひたれるまで家族で食べた。

そう喜んでいたのも僅かな時で子供達は成長と共に家を出て行く。

老後は愛し貫いた伴侶と共に生きようと夢に希望を膨らませていたが、その夢は一瞬にして崩れる。

愛した妻を目の前にすると目はうつろ、点滴の瓶がゆらゆらと揺れ、薬の時間に間に合わせる様に病院の食事を済ませる。

口癖は「また美味しいものを食べたい」だった。子供達は仕事が忙しくて帰って来れないという。

そうして妻は天国に召され、私は受け入れる事が出来ず妻を抱き抱えた。その妻の身体はもう動かない。

ずっしりとした重さだけが私の腕の中に残り、点滴の針の穴が妻の腕にはくっきりと残されていた。

今も私に寂しさを教えてくれる。


もし、もう一度人生があるのなら、


古い大きな農家の家に生まれ、銭は無いが、納屋には安全な野菜やスイカが形は悪いがびっしりとあり、納屋の日陰には玉ねぎがかけてある。鶏は犬にからかわれ、子供達が山積みのジャガイモを見ている。

その光は眩しい。

世間では家族農業は非合理的で儲けを産まない事なので、食料自給率が上がらないというのだ。
それでも一年の労をねぎらう収穫の日は最高の日。

長年連れ添ったかーちゃんと真剣に収穫に向き合う。汗をかいて、動かした後の漬物は最高だ。銭は無いが生きる為の最高の知恵を持っている。

はたからみたら何をバカな事と、しかしこの最高の人生を大企業や政治問題で奪われたくない。儲けがなくても私の精神は自然と遊離する事なく、共に歩んできた。儲けが要らないのではなく、儲けが必要無いのだ。

そんな事を考えながら時間は50年流れ、かーちゃんと2人で50回米作りをした。そんなかーちゃんも朝起きたら死んじまったよ。ゆっくりと抱き抱え妻を抱きしめると何とまあ軽いこと。

顔を覗き込むと、化粧した事あるんだか無いんだか美人とも言えねー顔で死んでるんだが、何とまあ生き返りそうな位、元気そうじゃねーか。外を見渡すと2人で育てた作物達が今日も元気にそこにあった。

その作物が今日も俺の命を繋いでくれる。