『ハウリングの音が聴こえる』(松村雄策・著 河出書房新社 2024年) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 今から40年近く前、大学生だった頃の話です。同い年の友人のなかに、松村雄策さんの請け売りばかり言う男がいました。毎月1日に『ロッキング・オン』が発売されると、数日ほどおいて、その号で松村さんが書いていたことを自分の感慨であるかのようにポツリと呟くのです。「”ニューミュージック”なんてもう死語じゃないのか?」とか「みんなは服に金かけてるけど、本当に欲しいものって、そんなにあるのかな?」とか。

 彼は私が『ロッキング・オン』を隅々まで読んでいると知っていたから、仲間との感性の確認のつもりだったのかもしれません。あるいは、『ロッキング・オン』愛読者の一症状だったか。正直いってウザかったけど、そういう症状は私も身に覚えがないわけではなかったので、聞き流すフリをしていました。
 それに、松村さんの文章は軽快で平易で堅苦しさがないのに、心にしっかりと錨をおろすものだったのです。しかもあれだけ上手い文章でありながら、同誌の主部だった読者投稿と並んでも不思議と馴染んでいました。影響を受ける人間が多数いてもおかしくありません。

 松村さんの没後二作目となるエッセイ集『ハウリングの音が聴こえる』を読んで、あの友人はここからも何か請け売りするのだろうか、なんてことを想像しました。
 大学を卒業して以来会っていないので、彼が今どんな50代後半を生きているのか知りません。普通に考えて、大学時代とは心境も変化しているでしょう。この本には、そんな読者の年輪と共鳴する部分がたくさんあります。2014年から2018年までに『小説すばる』で発表されたエッセイが集められており、その間に60代の半ばを超えた松村さんの入院にまつわる話も書かれています。私と友人の年齢にも無縁とは言いきれないことです。
 しかし少なくとも私はここに書かれた松村さんの言葉を、私たちが若かった頃と同じようには、自分の日常の感慨にすり替えて請け売りする気にはなりません。おそらく友人もそうだと思います。『ハウリングの音が聴こえる』には松村雄策さんがいて、私には私の人生がある。それがよそよそしさではなく、それでいいのだと深く頷かせて本を閉じる、そんな暗黙の距離感が魅力的な一冊です。
 
 もとが文芸誌に書かれたエッセイだということも関係はあるのでしょう。
 相変わらず、ビートルズを中心とする60年代や70年代のロックについての本題までが長く、そこはじつに松村さんらしい。いや、もはや本題がロックとは言えないくらいに、野球や相撲やプロレスや落語のことが各章を覆っています。それでも書いている目線の源はロックなのです。松村雄策という人の血中ロック値の高さを、わかっていたつもりでも改めて強く感じます。
 ただ、音楽専門誌の読者に向けて書かれていないので、筆致の気の置けなさは『ロッキング・オン』での文章と弾みが微妙に異なります。堅苦しさは微塵もないのだけど、読者にロック・ファンのみを想定していない気遣いは随所から伝わってきます。そんな文の運びが毎度パッとロックの話題に切り替わる手並みは、本人もどう繋げようか迷うと吐露するところも含めて、落語の三題噺を聞くかのようで、『ハウリングの音が聴こえる』を読む楽しみのひとつです。
 いわば文芸誌でのアウェー感が、松村さんの愛読者には独特の面白い距離感を生みます。それがいっそう、彼には彼の生活があって読者には読者の生活があることを印象づけながら読ませます。

 松村さんは文の縫い目が消えるまで推敲を重ねた書き手だと思いますが、この本に収められたエッセイは、どれも一行ごとの磨かれ方が彼の他の著書を上回っています。一行に情報を凝縮しているのではなく、もちろんレトリックを凝らしているのでもなく、これ以上崩せないほどに磨かれていて、集中力と張りを保った状態で次々に流れていくのです。ウイングスの名曲、Band On The Runのイントロを連想させます。
 たとえば遠藤賢司さんの訃報に際して書かれた「夜汽車は走るのです」(p.222)。松村さんがエンケンさんと親しくしていた頃と疎遠になった経緯を綴った箇所は、自身の過去に注ぐ目線にも故人への想いにも感傷はありません。淡々と、軽く触れるようにして、選んで磨きぬかれた言葉で振り返っています。それが読者の心のモニターに二人の若い頃を映し出し、さらには読者自身の人生経験をも投影させます。その投影は、松村さんの言葉を請け売りしたくなる気持ちとは、似ているようで違っています。読者の感慨として同一化できるものではない、その距離感が深い後味を残すのです。

 松村雄策さんは『ロッキング・オン』の創刊スタッフでした。あの雑誌や他のロック雑誌が、とりわけ1970年代と1980年代に共通認識の柱としていたのは、おもに「なにがロックで、なにがロックではないのか?」だったと思います(他誌との論争もありました)。
 その論調はさまざまでしたが、『ロッキング・オン』は読者投稿で成り立つ雑誌だったので、本職の音楽ライターではない若者が、自分たちの日常の中でおぼえた「なにがロックで、なにがロックではないのか?」を重視した文章を書いていました。
 私の友人も、そして私も、その磁力に引っ張られて毎月『ロッキング・オン』を読んでいました。松村さんは上の世代の人であったけれど、読者が重視するその事柄を気取らずにサラリと教えてくれる書き手でした。彼のロック・エッセイには世代を超えて共感できるロック・ファンの喜びと溜息がありました。
 『ハウリングの音が聴こえる』の文章は、「なにがロックで、なにがロックではないのか?」が共有される枠の少し外で書かれたことになるのでしょうが、文芸誌だろうと音楽誌だろうと、文章を書いて発表することに変わりはない、という静かな矜持もまた伝わってきます。ここに書かれたロックは、広く文章表現を求める読者に対して、文章そのものの力で向き合って綴られています。

 松村さんの著書の中で、この『ハウリングの音が聴こえる』は私が読み終わるのに一番時間をかけた本でした。とても読みやすいのですが、いつもの「喜びと溜息」の入るスペースを少なくして、一行ごとを磨きに磨いて焼き付けるような凄みを感じます。こんなに軽みがあるのに、ページの途中で何度も本から顔を上げて反芻したくなりました。
 読み終わって、私はこの本を第二遺稿集というよりも、故人によるセカンド・アルバムとして受け止めたのだと気づきました。こんな感想を松村さんがどう思うかはわかりません。でもそのくらいの重みと充実で、一気に読むのがもったいなくなる本です。

 これらのエッセイを書籍の形で読めてよかった。この本は松村さんの11冊目であると同時に、前著『僕の樹には誰もいない』に続く待望のセカンド・アルバムです。

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