1998年のガレージ・ランド | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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ロックを中心とした昔話、新しいアフロ・ポップ、クラシックやジャズやアイドルのことなどを書きます。

 チバユウスケの死という信じがたい報を目にした日の夜、彼について文章を書いたものの、ブログにはアップしませんでした。私はTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTもROSSOもThe Birthdayも好きだったけれど、ファンの熱狂の渦に身を投じていなかったことに気が引けたからです。
 それらのバンド、とくにミッシェルに熱狂していた人たちこそが、心から彼の死を惜しみ悲しんでいたはずです。私は焼香の順番を守って、時間をかけて自分なりの言葉を書きたいと思いました。以下は、訃報から11日がたった今日、私に書ける文章です。

 ミッシェルというと、真っ先に思い出すのは1990年代末のCDショップです。私は当時、一軒の中規模店で働いていました。
 インターネットが普及する少し前で、もちろんYouTubeもAmazonもなかった頃です。日本中にCDショップはたくさんありました。新譜のCDは安い値段でなかったにもかかわらず、店は連日賑わっていました。スタッフは入荷や品出しに追われ、休日にはレジにお客さんが並ぶのも珍しくありませんでした。

 ミッシェルのサード・アルバム『Chicken Zombies』がリリースされたのは1997年の11月です。私は彼らの名前を見聞きしたことはありましたが、どんな音楽をやっているバンドなのかは知りませんでした。「ミッシェル」だからフレンチ・ポップか渋谷系とかのオシャレな音かなと勘違いしていたほどです(それにしても無知すぎる・・・)。
 出たばかりの『Chicken Zombies』が店頭で流れ、1曲目の「ロシアン・ハスキー」を耳にしたとき、あのミッシェルなんとかというバンド名とイメージが結びつかず、CDを確認しにいって驚きました。こんな激烈で飢えたような、身体に痛いロックンロールを演奏するのかと。
 洋楽を中心に聴いてきたとはいえ、29歳だった私はロック・リスナーとして若者に遅れをとっているのだと焦ったのをおぼえています。店頭演奏が5曲目の「バードメン」に進んだとき、ブルー・チアーにオマージュを捧げたジャケットを持つそのCDを買うことに決めました。

 店のスタッフは、10代もいれば20代も30代もいました。好むジャンルは様々でしたが、クラシック・ファンもジャズ・ファンもロック・ファンもヒップホップ・ファンも音楽が好きなのは変わらないので、休憩時間には和やかに談笑していました。
 その連中がみんな、店頭で流れた『Chicken Zombies』に圧倒されていました。ふだんあまりロックを聴かないスタッフでさえも「凄いな」と呟いていました。
 本物は、通じるのです。そしてロック・ファンではない彼らがミッシェルを「凄いな」と言うとき、私は新たに開いた通路を見つけたみたいで嬉しくなりました。

 続くアルバム『ギヤ・ブルーズ』がリリースされたのは、それから1年後の1998年11月です。その間にミッシェルはロック・シーンの新しいヒーローとして熱い注目と支持を集めていました。
 なにかの雑誌にチバユウスケが好きなロック・アルバムを挙げた記事が掲載されて、私も目を通しました。ヘッドコーツ、パイレーツ、ドクター・フィールグッドにエディ&ザ・ホット・ロッズ、それにザ・フーや初期のローリング・ストーンズなどのアルバムで、各盤を選んだ理由には、「最高にカッコいいから」「イヤんなるくらいカッコいいから」といったチバユウスケ独特のコメントが読めたと思います。

 私はその特集を参考にして、それらのCDを集めて陳列したコーナーを作りました。ミッシェルの所属レーベル(TRIAD)からヘッドコーツのコンピレーションがリリースされた頃で、それを中心に据えたコーナーでした。
 どれも単品では頻繁に売れるアルバムではありません。けれどミッシェルの影響元という括りで並べると、そのコーナーはどんなキラキラした新譜にも負けない鈍くて強い光を放っていました。ミッシェルの音楽のように、鉛のような重さとスパッとした潔さを感じさせる顔ぶれ。
 これが当たったんです。いや、店全体の売り上げと比べたら微々たる枚数ではあったのですが、私はそんな数字よりも大切な、掛け替えのない光景を見ることができました。

 それは若者たちの姿です。学校帰りの制服姿の男の子や女の子が、友達どうしや一人で来店して、そのコーナーの前で立ち止まり、パイレーツやドクター・フィールグッドのCDを見ている。カバンを床に置いて、次々に手に取って、まるでジャケットから音が聞こえてくるみたいにして見入っているんです。
 パイレーツのCDが売り切れるなどという、嘘みたいな事態も起きました(もとの仕入れ枚数が少なかったのですが!)。空いた箇所にインメイツやダックス・デラックスを入れると、それもすぐに引っ張り出されます。
 個別の質問も受けました。一人で来ている女の子が、「プリティ・シングスみたいなバンド、ないですか?」と伏し目がちに小声で訊いてきます。たぶん私はキンクスのファースト・アルバムとかダウンライナーズ・セクトをお薦めしたかと思います。べつの男の子にはルースターズについて質問されましたが、それはミッシェルのシングル「GT400」が出た直後(2000年)だったかもしれません。私もおせっかいして、村八分やジャックスもいいよと言いました。そうすると彼は、カバンから学校のプリントを取り出して、その裏に「村八分、ジャックス」と走り書きするんです。その様子が微笑ましくもあり、同時に羨ましくもありました。その情熱や青さの向こうにミッシェルのロックンロールが鳴っているかのようでした。そんなロック・バンドが素晴らしくないわけがない。

 1990年代はCDの発売点数が極度に増大した時期で、それは新譜だけでなく、旧譜やレア盤の復刻にも当てはまりました。ディスク・ガイドを手にして大型CDショップや中古レコード店に通い詰めていたら、どんどん詳しくなっていきます。お金と時間を注ぎ込みさえすれば、ちょっとしたマニアになれました。
 私はチバユウスケと同い年なので、彼が1980年代の学生時代にパブ・ロックやガレージ・ロックに受けた衝撃をなんとなくでも想像できます。そうしたサウンドは、私たちの青春時代に世の中で流行っていた音楽とは正反対でした。そこを追いかけてゆくと、自然とマニアの世界に近づくことにもなります。
 でもミッシェルのロックはマニアの範囲内で終わってはいませんでした。自分たちが影響を受けたドクター・フィールグッドやパイレーツが放っていた狂おしい熱を、1990年代末の日本に、ロックのリアルでハードなダンディズムとロマンティシズムとして鳴り響かせたのです。それを体現し、さらに若者たちを巻き込んで突き動かす才能と、ファイトと、そしてカッコよさを、彼らは完璧に備えていたと思います。

 私は十代の頃にRCサクセションやルースターズのファンでした。忌野清志郎が好きだからオーティス・レディングやウィルソン・ピケットのベスト盤を探して聴きました。ミッシェルからパブ・ロックやガレージ・ロックへと遡る高校生の関心のあり方も、ものすごくよくわかります。ていうか、私だってミッシェルがとても好きで、いつも見上げる存在でいました。

 でも高校生たちが真剣な目つきで、限られた小遣いの中からパイレーツとドクター・フィールグッドのどちらのCDを買おうか迷っている姿を見てしまうと、彼らのような若者が自分よりもずっと激しく切実にミッシェルを求めているのだ、と痛感させられました。

 それは遠慮とは違っていたし、遠慮の名を借りたマウンティングでもありませんでした。かなり大げさに言うと、ミッシェルに夢中な若者たちの集まる小さな場所をひとつ作るほうが楽しくなったのです。実際にはCDショップの一角にすぎないスペースでしたが、若い憧れと情熱で、そこだけ温度が特別でした。

 だから私は今回の訃報に気が塞ぐとともに、かつてパイレーツのアルバムを探していた元・高校生たちがどれほど悲しんでいるかを考えて胸が痛くなりました。
 きっとあの子たちも現在は40代の前半でしょう。今も音楽を聴き続けている人もいれば、仕事や家庭で忙しくなったり、ほかに夢中になるものが見つかったりして、音楽から遠ざかった人もいるでしょう。どちらが正しいとか間違っているという話ではなく、どちらも人生です。
 だけど、あの子たちが目を輝かせてドクター・フィールグッドのアルバムを手に取って見ている姿は眩しかった。その夢中さのゴボゴボとした沸騰が私には羨ましくてしょうがなかった。

 給料も安いし雇用も不安定なCDショップの店員だった私が、それでも仕事のやり甲斐を振り返ることがあるとすれば、人と音楽が出会う場所を作っていたという思いこみだけです。誰にも通じない個人的でささやかな自慢でしかないのですが、あの光景は今でも宝物です。そしてそこにミッシェルのロックがあったことが私には忘れられません。