隔月で更新しております「歌本」のコーナーです。昭和40年代から50年代(1965年から1984年)の演歌や歌謡曲について毎回ひとつ、作詞面だけでなく作曲面にも注目して書きます。
第4回目は1972年(昭和47年)にリリースされた三善英史の「雨」。発売日は彼が18歳になる約3ヶ月前の5月25日でした。
歌いだしの「雨にぬれながら たたずむ女(ひと)がいる」が有名です。雨をモチーフとした曲としても、昭和の流行歌に親しんだ世代にはよく知られています。
作詞は千家和也で、作曲は浜圭介。第2回目でとりあげた「そして、神戸」(内山田洋とクール・ファイブ)もこのチームによる同年11月のシングル曲でしたし、二人は前年の暮れにリリースされた奥村チヨの「終着駅」も手掛けていました(浜圭介は1974年に奥村チヨと結婚します)。
編曲は近藤進。イントロにエレクトリック・ギターのヴォリューム奏法を絡めるなど、柔らかいトーンと物悲しげなフレーズで全体を仕上げています。
まずはとにかく、このメロディー。たおやかな洋風の美メロです。とくにワン・コーラスの前半部はポップス調の翳りを感じさせ、演歌のイメージには収まりません。タイトルの「雨」や三善英史の歌声と相まって、しっとりとした潤いを湛えています。
曲のキーはファに#のつくEm(ホ短調)ですが、話をわかりやすくするために、この記事では#のつかないAm(イ短調)に移しましょう。
メロディーとは別に、コード進行では要所にE7(ミソ#シレ)が使われています。これはセカンダリー・ドミナントと呼ばれるコードで、主役のコードであるAmに、ややイレギュラーだけど絶妙なバトンタッチをはたします。このE7をコード進行に挿むことで、少しモダンで洒落た哀感が醸し出されるのです。
たとえば、「たたず~むひとがいる~」と「傘の花が咲~く~」を繋いでバックで鳴る音にこのコードが使われており、原則的には#のつかないイ短調に、E7のソ#がモダンな抑揚をつけているんですね。
冒頭の「雨にぬれながら たたずむ人がいる」の4小節で、イ短調のナチュラル・マイナーのスケールであるラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソがすべて散りばめられています。サザンオールスターズの「Bye Bye My Love(U are the one)」についての記事にも書いたように、この散りばめは曲調の色彩感を富ませます。この曲の雨の情景にモノトーンの印象を受けないのは、歌詞に「傘の花が咲く」とあるからだけではないんですね。メロディーもそういう効果をあげています。
ラ(「雨」)と、1オクターヴを超えて低いファ(「ぬれながら」の「が」)の間を巧みに昇降し、しかも後続する「土曜の昼下がり」の「曜」がさらに1音低いミです。とても美しくキャッチ―なメロディーなのですが、素人が伴奏なしで歌おうとすると、「雨に」の次の「ぬれながら」の「ぬ」で音を取り損ねたりします。本当は「ぬれなが~ら~」はドミド↓ファ~↑ド~なのに、「ぬ」を低く取ってしまって、ラドラ↓ファ~↑ド~になりがち。その箇所のAmコード(ラドミ)内には収まるのですが、歌いにくいです。
このメロディーには雨が滴るような流麗さを含んだ情感が漂い、その流麗さは「終着駅」を書いた浜圭介らしく、昭和40年代のフィルターを通したヨーロピアンな叙情味でもあります。
秀逸なのは、この前半が終わると、サビで情感が日本的なものへと変わってゆくことです。
「約束した時間だけが躰(からだ)をすり抜ける」では、頭からミ~ミファファ(「や~くそく」)で半音に和テイストを滲ませてのマイナー進行。さらに先の「道行く人は誰ひとりも見向きもしない」では、ラ・シ・ド・ミ・ファの5音で成り立つ「ヨナ抜き」(主音のラから数えて4つめのレと、7つめのソが使われない)です。最初にあった昭和ヨーロピアンな叙情味は純日本的な情緒に変わっています。
「雨」という曲で、この変化をどう作品解釈に紐づけられるでしょうか。今度は歌詞に目を向けてみます。
主人公の女性は、雨の降る雑踏でひたすら男を待っています。渋谷のハチ公前がモデルだそうですが、街なかであればどこだっていい。私は大阪の──戎橋じゃあナンパ目当てに声をかけにくる輩が多いので──淀屋橋を思い浮かべます。
先述したように、この曲のメロディーは日本的な情緒を露わにしていく作りですが、彼女は昭和ヨーロピアンなメロディーが似合いそうな洋服を着ているのでしょう。色とりどりの傘の花が咲いて、彼女の横を行きかいます。華やかさや賑わいから取り残されて、待ち合わせの時間がどんどん過ぎていき、二番の歌詞では「約束した言葉だけを幾度も噛みしめて」、三番では「約束した心だけが泪によみがえる」(美味い歌詞だ!)。でも、周囲の人たちは見向きもしない。彼女が街の雑踏の中では、服装も含めて、よくある光景の一部だからです。1972年の日本の都会と個人の姿。
横井庄一氏がグアムから「恥ずかしながら」帰還し、あさま山荘事件が起こり、日本列島改造論を引っ提げて田中内閣が発足した1972年。この年、イギリスではT・レックスがグラム・ロックのブームを巻き起こし、日本では『ポーの一族』や『ベルサイユのばら』が連載を開始しました。いずれにせよ、終戦から高度経済成長までの時期が終わり、社会の空気が新たなほうへ向かっていった、70年代の本格的な始まりだったのではないでしょうか。
作詞の千家和也は半年後の「そして、神戸」で恋に破れた女性の自暴自棄な行動を活写しますが、あの歌詞で主人公を突き離しながら見守る視線は「雨」にも感じられます。その視線は「そして、神戸」よりも優しい憐みを帯びています。内山田洋とクール・ファイブとは違って、17歳の三善英史のデビュー曲に書かれたことが大きな理由でしょう。また、後述する彼の歌の美点も考慮されたのだと思われます。
ソングライティングの過程が詞先だったのか曲先だったのか、私にはわかりません。ただ、メロディーが洋風な表情から日本的な情緒へと変化するにつれて、(当時の)現代女性である主人公の心情を「じっと耐えるのが務めと信じてる」ような演歌性に運ぶのは興味深いし、歌詞とメロディーの符号としては見事です。まさに雨が彼女のモダンな外見を洗い落とすかのよう。
歌詞は主人公を客観的に眺めて始まり、最終的には彼女の気持ちを代弁するようにして閉じます。これが「いじらしい女性像」を求める男性の身勝手なイメージの押しつけだとの意見もあるでしょう。しかし、それを主人公の女性の悲哀に寄り添ってフィットさせているのが、三善英史の歌です。
NHKのこちらのページを読むと、デビュー当時の三善英史は「雨」の歌詞の意味があまり理解できていなかったそうです。「分かっていなかったから、サラッと歌えたのかもしれません」と語っています。たしかに本人が「サラッと歌えた」と回想するような、歌詞の主人公に対して憑依型ではない距離感が「雨」での彼の歌唱にはあります。
「雨」は17歳の少年がデビュー曲とするには難しかったでしょうが、涼しげで落ち着いた彼の歌は、この曲の歌詞とメロディーの水気と美しく反応しあっています。中性的な魅力、という言い回しが今の時代に適切でないとしても、そう呼ぶのが一番ふさわしい。演歌では歌い手の性別と歌詞の語調が一致しないなんて普通のことですが、「雨」の三善英史はそういう憑依的な歌唱とも異なっています。同じ年の暮れにリリースされた美川憲一の「さそり座の女」の禍々しさとも、この数年前に(演歌ではないけど)「夜と朝のあいだに」をヒットさせたピーターのデカダンスとも異なります。
私が「雨」の歌声に感じるのは、性別のうえでも、都会でも社会でも、どこにも属していない存在の視線の温度です。そういう意味での「中性」的な魅力が、ここでの三善英史の歌声にはあります。それは十代の青さでもあり、憑依型でないのは彼のキャリアの浅さもあったろうけれど、そんな声が昭和ヨーロピアンから純日本風へと変化するメロディーにのせて、モダンを雨に洗い落とされた耐えて待つ女の心情を歌うと、潤いのあるウェットな声と冷んやりした体温が主人公の悲しみを独特の距離感と味わいで際立たせます。
待たせる男が悪いのか、待ってる女が馬鹿なのか、時間が躰をすり抜けて、雨が心に降りかかる・・・なんてナレーションを思いつくほどに、典型的に古い「耐え忍ぶ」女性像です。キメのフレーズの「恋はいつの日も捧げるものだから じっと耐えるのが務めと信じてる」は、21世紀では受け入れられにくいでしょう。いや、私だってこの曲を意識しだしたのは1980年代、中学生になってからで、その時点でも相当に古臭いと感じました。
だけど、この「耐え忍ぶ女性像」は美徳として描かれているのか。
そう受け取られて人気を博した部分も多かったと思います。が、私はこれは「恋の愚かしさ」「恋することの不如意(望むようにならないこと)」をソフトにデフォルメして描いた歌だと考えます。つまり、いつの時代にも恋という心の動きに本質的に潜んでいる愚かしさ(否定的な意味だけではありません)の歌なのです。それを演歌のリテラシー内で通用していた感傷を通して、カタルシスを誘う形で描いています。
だから聴く人によっては古臭くて滑稽でナンセンスだと感じるし、べつの人にとっては身に覚えのあることが歌われていると、言下に斬り捨てられないのです。
主人公は「じっと耐えるのが務め」なのだと自分に言い聞かせています。それは美徳なんかじゃありません。馬鹿です(もちろん、相手の男が最低なんですが)。もっといい恋愛ができる日が来るでしょう。でも彼女が今誰かを好きになるってことは、これ以外にないんです。
女性にかぎった話でもないですよ。男だって、来る見込みのない相手を待ち続けることがあります。それは恋の愚かしさであって、恋の不如意であって、その心の状態には男も女も関係ありません。この曲の「中性的」な魅力はそこにもあります。
私はこのメロディーと歌詞、そして三善英史の歌を聴いていると、自分の性別が雨に洗い落とされて、愚かな一人の人間の姿が露わにされる気分になります。
(余談:ピーターと三善英史は、それぞれ映画版の『獄門島』とそのドラマ版で、鵜飼章三という色悪の美男子を好演しました。圧倒的にインパクトがあったのはピーターの鵜飼さんですが、あれは映画的なケレンの利いたキャスティングの妙でもあり、三善英史の鵜飼さんも良かったと思います。ていうか、『獄門島』における鵜飼さんが出色のキャラクターなのですが。)