名盤と私58:New York Dolls/ New York Dolls (1973) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 ニューヨーク・ドールズの名を知ったのは、『ミュージック・ライフ』か何かの雑誌に載っていたハノイ・ロックスの記事でした。彼らが影響を受けたグループとしてドールズの名が挙げられていたのです。

 それは私が高校1年だった1983年のことでした。ハノイは日本の音楽雑誌のグラビアを飾るバンドでしたが、ニューヨーク・ドールズは解散して何年もたっていました。近所のレコード屋でもLPを見かけることはなかったと思います。私もドールズのことは次第に忘れてしまいました。
 興味が戻って来たのは高校3年になった1985年です。この年は私にとっての「グラム・ロック元年」で、T・レックスとロキシー・ミュージックを初めて聴いて夢中になりました(デヴィッド・ボウイは当時の私には『レッツ・ダンス』の印象が強すぎました)。どこで聞きかじったのか、グラム・ロックのアメリカ代表にアリス・クーパーとニューヨーク・ドールズがいたことを知り、ようやくそこで焦点が定まったわけです。

 ファースト・アルバム『ニューヨーク・ドールズ』(1973年)のプロデューサーに選ばれたのはトッド・ラングレンです。彼は当時つきあっていたベベ・ビュエルに誘われてニューヨーク・ドールズのライヴを観に行き、粗野でユーモラスで面白い、という印象を持っていました。

 1973年のトッドは前年にアルバム『サムシング/エニシング?』からI Saw The LightとHello, It's Meをヒットさせており、「洒落たポップ・ソングを書くシンガー=ソングライター」として認識されていた時期でしょう。もともとガレージ・ロック・バンドの出身で、その後もベアズヴィル・レコードでスタジオ・エンジニアを務めたりしていましたが、一般的な評判は彼の作り出す美しいメロディーに集まっていたと思われます。

 そのトッドにドールズのデビュー・アルバムをプロデュースするお鉢がまわってきました。バンドの態度の悪さからプロデューサーがなかなか決まらなかったらしく、もちろんトッドは音楽的な興味から引き受けたのでしょうけど、「ガールフレンドのお気に入りの荒馬を乗りこなして尊敬されたい」という願望が多少は働いていても不思議ではありません。つまり、トッドは彼女の目の前でロデオに挑戦したわけです。

 

 仕上がりに関して、ジョニー・サンダースはミキシングに不満をもらし、デヴィッド・ヨハンセン(ジョハンセン)とシルヴェイン・シルヴェインはトッドの手腕を認めています。

 私はこのアルバムを1987年にレンタル・レコードで借りて聴き、どちらの言うこともわかるような気がしました。聴く前に期待していたほどラフで狂おしい音ではなく、オーヴァー・プロデュースというほどトッド色が濃くもなかった。

 それでも最高のロックが最高のカヴァー・アートでパッケージされているじゃないかと興奮しました。ミック・ジャガーの声をドブで洗ったようなデヴィッド・ヨハンセンのシャウトや、キース・リチャーズを困り顔にしたようなジョニー・サンダースの破けまくったギターの音。日本人のトシ・マツオが撮影したジャケットの写真を眺めながら聴いていると、猥雑とスタイリッシュが渾然となったセンスに悪酔いしそうになりました。

 おもちゃ箱をひっくり返したような、という言い回しがありますが、このアルバムはそうではありません。むしろ、おもちゃ箱に仕切りを設けて収めたアルバムです。演奏のノイズ成分を整えて楽器と楽器の音も分離させ、キャッチーにまとめ上げています。

 ロックでは──とりわけグラム・ロックでは、音を整理整頓し、人工的な処理を施すことでエキセントリックな効果が生じたりします。本作はその効果に達したり達しきれていなかったりするも、アルバム全体が放ついかがわしい空気は魅力的です。

 Personality CrisisやLooking For A Kiss、Vietnamese BabyにTrashにBad GirlにLonely Planet Boyと曲も粒ぞろいで、キングズメンやシャングリラスなどのシックスティーズの要素がフックに使われているのも楽しい。それらのオマージュが、まさに「ドールズ」なイノセンスに毒々しい化粧を塗ったかのような、ふてぶてしく享楽的な花を咲かせています。ニューヨーク・ドールズがグラムとパンクの橋渡し的な意味合いで語られるのは、都市の華やぎとその裏側を生き抜くタフさがどの音にも息づいているからでしょう。

 やはり1973年にデビューしたアメリカのロック・バンドにエアロスミスがいます。ドールズと同じく東海岸の、ボストンから出てきたバンドです。彼らもストーンズなどのブリティッシュ・ロックに強い影響を受けていました。
 ドールズのファーストでエンジニアを務めたジャック・ダグラスは、翌年にエアロのセカンド・アルバム『飛べ!エアロスミス』(原題はGet Your Wings)をプロデュースします。やがてこのチームは『闇夜のヘヴィ・ロック』(原題はToys In The Attic)、『ロックス』、『ドロー・ザ・ライン』と傑作を連発してエアロの黄金期を築きあげます。
 また、トッドをドールズのライヴに誘ったベベ・ビュエルはその前にスティーヴン・タイラーと交際していました。彼女はスティーヴンの子供を妊娠していたのですが、彼のドラッグ常用が教育に災いするのを恐れて別れたようです。生まれた娘がリヴ・タイラー。トッドは経緯を知ったうえでリヴを娘として育てることになります。

 そんなふうにドールズとエアロには不思議な縁があり、両者は音楽的なルーツも似ているのだけど、リズムに対するアプローチは違っていました。エアロは徐々に武骨ながらも味のあるシンコペーションを繰り出して、ファンキーなグルーヴ感を演奏のボトムに取り込むようになります。Walk This Wayなんかはその典型です。
 ドールズからはあまりそうした要素は受け取れません。引き裂くようにドライヴするジョニー・サンダースのギターは後のパンクに近いし、バンドの演奏もグルーヴの妙を感じさせるものではない。
 Personality Crisisでは、リズム・ギターのシルヴェイン・シルヴェインが弾いたピアノの上にトッドが自ら鍵盤をダビングしているそうです。これはウワモノの音色としてピアノの表情が足りていなかったというより、そのままでは演奏にロールが乏しいとトッドが判断したのでしょう。

 この1973年、トッドはグランド・ファンク・レイルロードの『アメリカン・バンド』をプロデュースしてヒットに導いています。あれもバンドの破天荒な個性を整えた作品で、7枚目のアルバムというタイミングを考えても成功した例です。
 『ニューヨーク・ドールズ』はファースト・アルバムです。まずは彼らのロックをもっと奔放にアピールする選択肢もあったような気もします。しかしスタジオ・レコーディングでそれを実現するには、ドールズの演奏はライヴで魅せるほどの「粗野な美味さ」に欠けるとトッドは考えたのではないでしょうか。
 アルバムの音についてジョニー・サンダースが不満を表したのは、Born To Loseを身上とする彼なら当然です。いっぽうでデヴィッド・ヨハンセンが仕上がりに満足しているのも、
彼が80年代にバスター・ポインデクスター名義でカリプソやジャイヴのスタイルを洒脱に取り入れることを思うと納得がいきます。

 

 また、ヨハンセンが満足しているのは、彼のヴォーカルがしっかりと真ん中で主張しているからでもあるのでしょう。

 このアルバムのドラムの音はグラム・ロック流の丸みを帯びて、演奏の後ろに位置しています。かわって目立つのがヴォーカルです。上手い歌ではないのですが、ネバっこい下品さと道化的なユーモアの合わさった牽引力があり、シャウトは痛みと滑稽さに恵まれています。彼が何曲かで取り入れる女性的なシナの入った節回しはシャングリラスっぽく、それはグラム的であるだけでなく、やがてラモーンズのジョーイ・ラモーンに受け継がれているように思えます。

 バック・コーラスは時にソフトに、とくにTrashでは曖昧なまでに薄っすらとミキシングされています。ライヴ音源で聞けるリード・ヴォーカルとコーラスの乱調の絡みや衝突は回避され、きれいに仕切られて箱に収められています。Personality CrisisもLokking For A KissもTrashも、そうしたプロデュースの手際が功を奏した曲です。反面、Frankensteinなどにはその部分の練りが足りていない惜しさを感じるし、いくつかの曲では「あと少しラフさを前に出してもいいんじゃないか」と言いたくなる瞬間もあります。

 ニューヨーク・ドールズにはプロデューサー的なセンスを持ったメンバーがいなかったのかもしれません。まあ、そんなことを彼らのようなバンドに求めてどうする?という気もしますが、細かいことを考えるより先に完成されていたスタイルの一本気な強さと、それゆえに外部のプロデューサーを迎えて新たに自分たちをクリエイトしきれなかった弱さの両方を私はドールズにおぼえます。そして、そこがまた愛おしいのです。

 このあと、セカンド・アルバムの『悪徳のジャングル』(原題はToo Much Too Soon)で、ドールズはシャングリラスのプロデュースで知られる(というか、当時はすでに忘れられていた)シャドウ・モートンと組みます。自分たちが崇拝するシャドウ・モートンへの交代は、トッド・ラングレンからの反動でもあったのでしょう。しかし、セカンドはセカンドで不首尾に終わった面がありました。

 

 前述したように、ファースト・アルバムにはキングズメンやシャングリラスを連想させる箇所があるのですが、それらはキッチュな記号として使われていません。そうしたオールディーズはデビュー・アルバムの制作時のドールズにとって真剣にカッコいい音楽だったのです。60年代のポップスも自分たちが1973年のニューヨークで体現するバビロンと地続きにクールなんだ、と彼らは信じていたはずです。

 その点はトッド・ラングレンも似ています。彼もドールズの音楽にそれを見抜いていたからアルバムを歌ものの方向でまとめたと想像できます。

 ただ、それをスリージーなロックンロールの奥にロマンとして打ち立てるまでには至らなかった。このファースト・アルバムはロックの名盤ですが、グラマラスなカヴァー・アートやワイルドな演奏の先に、異世界的なまでに爛れて煌くバビロンの像が結べていれば尚よかったと私は思います。


 もっとも、それを成しうるには、イギリスのデヴィッド・ボウイやブライアン・フェリーがアメリカのポップ・カルチャーへ向けていたような憧れと客観の交錯した眼差しが必要ではありました。

 ニューヨーク・ドールズもトッド・ラングレンもそのフィルターを持たずに、ファンタジックな像を結ばない自分たちの国の都市の姿を充分に活写したと言えます。それが数年後のパンクや、フィンランドのハノイ・ロックスを経由してガンズ・アンド・ローゼズへと伝播していくのは故なきことではなかったのです。