Pantera/ Vulgar Display Of Power (1992) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 日本でのアルバム・タイトルは『俗悪』。原題はVulgar Display of Powerで、「はしたない、力の誇示」とでも訳せるでしょうか。
 映画『エクソシスト』からのセリフの引用です。少女に取りついた悪魔が「この縄をほどけ!」と叫び、神父が「悪魔ならば自分でほどいてみよ」と挑発すると、「ハッハッハ、我輩はだな、そのようなはしたないマネはせんのだ!」と屁理屈で返すんです。
 これに『俗悪』の邦題をつけるセンスがどうなのか、今もってジャッジできません。それでいいんじゃないかな、とも思います。ただ、パンテラのこのアルバムは俗悪どころか高い志を持ち、それがパーフェクトに音へと結実した大傑作です。
 にもかかわらず、当ブログではパンテラについてほとんど触れたことがありません。私がヘヴィ・メタルというジャンルに疎くて、このバンドのプロフィールやヒストリーについても無知であるから、トンチンカンなことを口走ってしまわないよう自粛していました。
 けれども、先ほど久しぶりに『俗悪』を聴いて興奮し、その後に続いた数作も良いのだけど、やっぱりこれは凄いアルバムであって、自分にとっての本作の魅力を書いておきたくなりました。以下、できるだけ低姿勢で綴ることにします。

 『俗悪』を初めて聴いたシチュエーションはおぼえています。大阪のアメリカ村の中古レコード屋でした。店はキングコングだったような気がするのですが、自信がありません。
 その時点で、1992年の2月にリリースされてから半年ほど経っていました。店内に流れる音楽がゴリゴリと硬いメタル・ミュージックに変わり、通常なら気にせずに自分の買い物にいそしむはずが、やけに耳を惹かれて聴き入ってしまいました。そのアルバムがパンテラの『俗悪』。
 と、レジの近くにいた40歳くらいの男性客が、「ええ音、出しよるなぁ」と店員さんに話しかける声が曲間に聞こえました。
 なるほど。そうか。自分が耳を惹かれたのも「ええ音、出しよる」という事だったのです。これがメタルでなくとも、パンクでもいい。なんならヒップホップでも。ドシンと実在しているかのような、身の詰まった音の響きに心をつかまれたのです。

 「ええ音」ってどんな音なのか。クリアで綺麗なサウンドのことか。それもあるでしょうが、私の考える「ええ音」とは、作り手がソングライティングや演奏と同等に録音への意識を高く持ち、その意識が作品のクォリティと分かちがたく結びついている、そんな音のことです。ジャンルは問いません。


 パンテラの音楽はグルーヴ・メタルと呼ばれるそうです。その言葉からは、いわゆるミクスチャー・ロック的なファンク・ベースの活躍ぶりを想像してしまいます。
 『俗悪』はそうではありません。最初に感じた要素はスラッシュ・メタルだし、私もメタリカ、スレイヤー、アンスラックスあたりには好感をおぼえていたので、そこに反応したのかと思いました。
 でも、『俗悪』に対する私の反応は、好感のレベルを超えていたんです。畏怖や敬意に近かった。
 アーティストへの共感とか作品の味わいといった情操的な接点ではなく、次々と繰り出される音の塊にただただ圧倒されました。ファンクとはべつの、ヘヴィ・メタルの語法を用いて、徹底的にリフとリズムを中心に押しまくり、この方法でしか作り得ない硬質の起伏の渦に聴く者を飲み込ませる。当時「グルーヴ・メタル」の言葉は知らなかったけれど、私が感銘を受けたのは確かにメタリックなグルーヴでした。

 1曲目のMouth For Warから、ギターとベースが一体となったリフが襲い掛かってきます。パンテラの音を象徴するのがダイムバッグ・ダレルのギターで、余韻を引かない乾いたリフをランドールのアンプを経由して抉るように連発します。どこまでがグルーヴ・メタルまたはスラッシュ・メタルでは当たり前の事なのか、残念ながら私にはそれを述べるだけの知識が乏しいのだけれど、メタル素人の耳で聴いてもエクソダスと共通する部分は感じます。
 ただ、ダイムバッグ・ダレルのギターはセンスが独特で、リフに次ぐリフでしつこく押しまくるうちに、それがひと連なりのシーツ・オヴ・リフとなって耳に残るんです。そのうねりの粘っこさは、私の知る範囲内ではブラック・サバスを想起させました。

 5曲目のThis Loveは失意に満ちたダウナーな曲で、コーラス系のエフェクターをかけたギターがアルペジオを奏でて始まります。これなんかは直接的にサバスっぽいのですが、1992年にそれはグランジっぽいということでもありました。
 ブラック・サバスは『Burrn!』誌の読者には安定した人気があったのかもしれませんが、80年代にはそれ以外のロック・ファンから軽視されていたバンドでした。ハード・ロック/ヘヴィ・メタルのシーンの外側にいたロック・ファンからは語るに価しないと見くびられていたんです。
 しかし、1991年のニルヴァーナのブレイクで逆転劇が訪れます。グランジの表す絶望と虚無にはサバスのドゥームな音楽性が合っていて、私もニルヴァーナやL7を通じてサバスをちゃんと聴き直した一人でした。
 92年にパンテラがグランジと共振するような『俗悪』を作ったことは、自然な流れでもあり、意図的なものでもあったのでしょう。彼らが前作の『カウボーイズ・フロム・ヘル』(1990年)で『俗悪』へといたる方向性を掴んだことは後になって知ったのですが、あれも充実したアルバムだと認めつつも、私は『俗悪』ほどのインパクトは得ませんでした。それもこれも91年を境にした90年と92年の違いだったと思います。ホントに、その違いはものすごく大きかったんです。

 とは言うものの、『カウボーイズ・フロム・ヘル』も聴きごたえのあるアルバムで、『俗悪』でパンテラと出会った私にはとても興味深い内容です。リズムに向かう姿勢がまだ『俗悪』の手前にあって、スラッシュ的なコア感と王道ヘヴィ・メタルが同居しているように聞こえます。そして、後者の曲ではリズムの幅の取り方が大きく、揺れも残っています。こちらのほうがグルーヴ・メタルという形容を文字通りに納得させました。
 彼らは『俗悪』でそのリズムの表現方法をストイックなまでに変えたのです。リズムの幅の大きさが呼び込むニュアンスを排除し、極端にソリッドで密度が高く、音というより物質に近いリフの塊をリスナーに叩きつけるようになりました。ここまで書くと、私もそろそろ遠慮していた名前を出さざるを得ないわけで、『俗悪』の向こうに私が意識した中にはレッド・ツェッペリンの『プレゼンス』があったことを告白しておきます。

 まったく、この『俗悪』でのリフ攻勢の凄まじさには特筆すべきものがあります。いや、もっと練られたリフや明快にカッコいいリフはロックの歴史にいくらでも存在していました。パンテラのディスコグラフィーでも、1994年の『脳殺』(原題 Far Beyond Driven)や1996年の『鎌首』(原題 The Great Southern Trendkill)のほうが、リフさばきは巧みになっています。
 でも、『俗悪』でのリフには音響へのこだわりを仕込んだ鋭利さが光っていました。たとえば2曲目の、その名も示唆的なA New Level。ほとんど2つのリフで構成された曲ですが、それらのリフは響きに余剰がありません。潔癖と呼びたくなるほどです。無機質な感触さえ漂うこのリフが演奏のブレイクの完全な静寂と組み合わさることで、歪んだ暴力性が引き出されます。マスタリングの段階でもかなりの調整が行われていたと想像できます。担当したのは『ネヴァーマインド』で名を挙げたハウィー・ウェインバーグ。
 ファンに人気の高いWalkも、その点では引けを取りません。ヘヴィーなブギ―で押し通す曲で、ここでもリフ周辺の音響はリヴァーブをシャットアウトしてメカニカルですらあります。
 パンテラはテキサスで結成されたバンドで、ダイムバック・ダレルは子供の頃にキッスのエイス・フレーリーやエドワード・ヴァン・ヘイレンのほかにZ.Z.トップのビリー・ギボンズも好んでいたようです。そう言われてみると、リフの執拗さやフレーズの粘りなどはZ.Z.トップやサザン・ロックに通じるところもあるような気がするし、ますますこのバンドに興味が湧いてきます。『俗悪』の後半に収められたRegular People (Conceit)なんかは、どこをどう聴いてもヘヴィ・メタルなのですが、ギターのシンコペーションの取り方にはエアロスミスっぽいファンキー・ハード・ロックの影響も窺えたりします(最終曲のHollowの序盤もエアロのバラードみたい)。

 柔軟な音楽的感性を持ったうえでこのスタイルを選んでいるバンドだなと感心しました。それをダイレクトに感じさせたのがフィル・アンセルモのヴォーカルです。
 私はこの人がヘヴィ・メタルの分野でどういう存在なのかまでは理解できていません。なにせ当時は、門外漢にとっての基準はアクセル・ローズのスター性にしかなく、ジョーイ・ベラドナ(アンスラックス)やジェイムズ・ヘットフィールド(メタリカ)にも関心が追いつかなかったんです。
 ただ、『俗悪』をアルバム一枚通して聴くと、アンセルモのヴォーカルのレンジの広さが捻じ込まれるように伝わります。「レンジ」というのは声域だけではなく、曲のリズムに対応したアクセントの確かさです。それが広い。
 このアルバムは後半に前作『カウボーイズ・フロム・ヘル』からの流れを汲むタイプの曲が入っており、前半と比べると少し曲調にも幅があります。そうなったときに、No Good (Attack The Radical)での低音でのラップからシャウトへの展開、Live In A HoleでのツェッペリンのBlack Dog的な大見得、By Demons Be Drivenでの野太い咆哮、スラッシュ・メタルのRiseでの演奏を掌握した統率力の高さと、それぞれの曲のリズムに異なるアクセントを置き、アルバム全体にリフ一辺倒には終わらない多様な烈しさをもたらしています。今回聴き返して、彼のヴォーカルのウマさは昔よりも鮮烈に届きました。

 1992年は私が一時的にロックから離れだした頃です。前の年の後半にマッドチェスターが終焉していって、アメリカのグランジに興味が移っていたものの、休みの日に買って聴く音楽はヒップホップやジャズ、ゴスペルやソウルが増えていました。
 翌93年になるとその傾向が進んで、インドネシアのダンドゥッドやら東北地方の民謡などにも関心を持ちました。当ブログで1993年の記事が極端に少ないのは、その頃の私がロックの新譜を積極的に聴いていなかったからです。そんな脱ロックの時期にあった私が、ロックのハード化した様式を激烈に重たく表現したパンテラに魅了されたのは不思議です。周囲からも驚かれました。
 しかし、今になって振り返れば、ロックから離れだしていたからこそ、そのスタイルでなければ出来ない必然性を感じさせる音には反応し、歓迎したように思います。パンテラの『俗悪』にはその必然性が逞しく脈打っていました。
 グランジと同じ時代の空気を呼吸しながら、閉塞感の濁流にもビクともしない音楽のエネルギーの塊。『俗悪』に感激した私は、かくありたいと願っていたのかもしれません。ヘヴィ・メタルのみならず、90年代のオルタナティヴ・ロックにとっても重要で痛快な一枚です。

 

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