『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか』(南田勝也・編著 花伝社 2019) | 勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

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 洋楽しか聴かない層と邦楽しか聴かない層。前者は後者を「本物(もしくはルーツ)に耳を傾けない」と嘆き、後者は前者を「いまどき舶来品をありがたがっている」と笑う。あえて図式的に分けるならば、そんなニュアンスの断絶がミレニアムあたりから続いていると私も感じてきました。
 私は洋楽ヒットのMTV全盛時に思春期を過ごし、日本でバンド・ブームが興るのを横目で見つつ、洋邦を問わずに惹かれる音楽を聴いてきた者です。同世代に多い「洋楽しか聴かない」人たちほど邦楽を軽視しておらず、また現在三十代以下の人たちよりは洋楽に親しんできました。強いて言うと、良し悪しの判断の物差しは洋楽で培った感性が基準となっているのは否めません。
 だいたい、洋楽派の意見は先代・先々代の偉業を持ち出しがちだし、邦楽派の意見はコンテンポラリーに偏っています。それで開国か攘夷かを罵り合ったところで、ストレスの発散以外に得られるものは期待できません。ネット以降の世の風潮として、「知らないことは知りたくない」傾向が増えているようですが、もっと自分の知らないことを学んでこのトピックを考えたほうが、それぞれの立場の土台も固まるんじゃないでしょうか。

 花伝社から出版された『私たちは洋楽とどう向き合ってきたのか 日本ポピュラー音楽の洋楽受容史』は、今のところその最良の一冊だと思います。
 武蔵大学社会学部教授である南田勝也氏の編著で、氏自身も含む計八人の研究者が日本人が洋楽とどう向き合ってきたのかをテーマごとに論じてあります。いわゆる音楽ライターの書いたものではなく、論の運びはアカデミックですが、社会学的なアプローチはいずれも明晰で、日本における洋楽受容に多少なりとも関心があればスラスラと読めます。なにより、読んでいて楽しい。戦後ポピュラー音楽の流れを追って、外国文化に対する日本人の意識の歴史を解き明かしていくミステリーとしても楽しめるのです。

 扱われる時代範囲は、戦後のジャズ・ブームから2010年代のJポップまで。序章を加えると明治維新後の音楽教育にまで広がります。文明開化、戦争、高度経済成長、バブル景気、平成不況、ネット社会と移り変わる中で、洋楽への傾倒もしくは疎外が自国のポピュラー音楽に作用していった形跡を紐解いていく。蓄音機からストリーミングにいたる音楽再生環境の変化も必然的に述べられますし、日本人の欧米文化に向ける視点の強弱高低の系譜も浮かび上がります。
 「邦楽はレベルが低い」とか「洋楽ファンは外国かぶれ」などといった次元に落とし込む本ではありません。いま何が起こっているのか、それはどういう事柄の積み重ねによるのかを社会と歴史との関りから照らし出す、シリアスで面白い本です。

 この面白さはどの世代が読んでも通じるでしょうが、やはり、かつてこの国で洋楽が熱狂的に受け容れられた過去があったこと、現在ではその熱が見る影もなく冷めていることを、ある程度は前提に読む必要はあります。となると、この本は私のような”洋楽”黄金期を多感な時期に過ごした世代にいっそう強い実感をもって伝わります。当ブログを読んでくださる方の多くはそこに相当するでしょう。漠然と「昔はデュラン・デュランの写真を下敷きにはさんでる女の子がいっぱいいたのになぁ」とか「G.I.オレンジのレコードを中学生が買ってたよなぁ」とか、栄枯盛衰の栄と盛の温度を肌でおぼえている人ほど、枯と衰にいたった理由を好奇心に持って読み出せば止まらなくなります。そういう楽しみかたも出来る本です。
 また、90年代のJポップで育ったという人も、渋谷系や日本語ラップ、もしくはロック・フェスの話題が音楽誌を賑わせるようになった頃を振り返りながら、じゃあどうしてあの時代に日本のロック/ポップスが隆盛していたのかを、その前段、さらに前段へと手繰り寄せて認識を新たにすることができます。

 本の構成は通史の形式をとっていて、序章の明治期から読んでもいいのですが、私はどちらかというと自分の興味のあるテーマについて書かれた章から始めることをお薦めします。アニソンなら第八章、ビートルズなら第二章、80年代のストリート・ロックなら第五章、という具合に。ただ、はっぴいえんどと内田裕也の「日本語ロック論争」を社会学理論の切り口で論じた第三章は、非常に興味深いけれど呼吸を整えて読んだほうがいいかも。
 各章のトピックはおおまかに言うと次のようになります(カッコ内はその章の著者名です)。

 序章 洋楽コンプレックス(南田勝也)・・・概論と明治~昭和(戦前)の日本における洋楽受容のありかた
 第一章 ジャズの貫戦的熱伝導(髙橋聡太)・・・1952年のジーン・クルーパ・トリオ来日をめぐる日本人の熱狂
 第二章 ビートルズが教えてくれなかったこと(南田勝也)・・・ビートルズ来日とグループ・サウンズ
 第三章 日本のロック黎明期における「作品の空間」と「生産の空間」(南田勝也)・・・ピエール・ブルデューの理論で考察する黎明期の日本語ロックやポップス
 第四章 「洋楽の音」の追求と都市型音楽(シティ・ポップス)(大和田俊之)・・・牧村憲一氏へのインタビュー。欧米を手本にしたレコーディングをどのように実践したか
 第五章 ファーザーズサン(木島由晶)・・・浜田省吾と豊かになっていった日本、そしてアメリカ
 第六章 東京のストリート・ジェネレーション(安田昌弘)・・・日本語ヒップホップの台頭と渋谷
 第七章 フジロック、洋邦の対峙(永井純一)・・・ロック・フェスにおける洋楽・邦楽の受け入れられ方の変化
 第八章 Jポップを輸出する(日髙良祐)・・・アニソンと海外の邦楽ファンの傾向
 第九章 ウェブ的音楽生活における洋楽の位置(土橋臣吾)・・・洋楽を聴かない若者の意識
 あとがき(南田勝也)・・・洋楽と邦楽の「並行世界(パラレル・ワールド)」的な同期性

 いやあ、こうやって章ごとに要約するだけでもじつにスリリングな一冊です。
 書かれている事柄には私もアウトラインを知っているものもあれば、まったくと言っていいほど知らなかったものもあります。そして、そのどちらも私にとっての新しい視点が設けられていて、そこに知見を得られるしミステリー的な好奇心をそそられたりもするのです。いわば語りの角度のユニークさ。
 どれも読みごたえがありますが、フジロックでのTHE YELLOW MONKEYの挫折を中心にした第七章が、楽屋で悄然とする吉井和哉の顔が思い浮かぶようなドキュメント性もあり、個人的には興味の温度が低いロック・フェスの話にもかかわらず一気に読み終えました。
 あの場での彼らの敗北感を、同じ洋楽育ちの同世代だからこそ残念にも思うし当然だとも思うし、日本人としては悔しい部分もあって、でもそんなコンプレックスから逃れられないがゆえの相手への敬意も飲み込めてしまう。これは異文化に多大な影響を受けてきた弱みかもしれないけれど、自分たちのバンドをTHE YELLOW MONKEYと称してグラム・ロックを志す気持ちが私には痛いほどわかるというか、その屈折もまた私には日本でロックに夢中になることに含まれていて──もしかしたら若い人にはバカじゃねえの?と笑われるかもしれないけれど、この気持ちがあるから私はTHE YELLOW MONKEYを面白いなと思っていたわけで。

 本書のキーワードの一つでもある「コンプレックス」という言葉。これは一般には克服すべき事として見なされます。逆にこちらが相手から憧れの目で見られるようになった時は、打ち克ったと呼べるのでしょう。第八章でアニソンの海外人気を読むに、その道もあるのだなと感心はします。
 しかし、その逆転で充足しきって外部の世界から乖離したままに異種交配を断って、音楽はどうなるのか。きっと珍しい花を咲かせ実をならせるとは思いますが、私はその閉じた輪の中で同じものばかりを食べて生きることはできない。なにせロックにのめり込んだのも、それが色んな要素の混ざり合った極度に折衷的な表現だったからです。それを最初に知ったのが洋楽だったし、やがて日本のロックもそこに加わりました。

 本書を読んでいると、「洋楽コンプレックス」を丸出しにして未だ手に入らない音を求めて、誤解や大失敗の連続にもめげずに挑んでいた日本人の悪戦苦闘が眩しく思えてきます。洋楽しか聴かない人も洋楽をまったく聴かない人も、とにかくこういう歴史のうえに今があることを、ちょっとでもいいから心に留めてほしい。そうじゃないと真っ当な議論にはなりません。
 第四章でインタビューを受けた牧村憲一氏はシュガー・ベイブやフリッパーズ・ギターなどに携わったプロデューサーで、章の最後にこんなことを述べています(p.134)。
 「憧れから模倣へ、模倣から創造へ、その繰り返しが、まるでらせんのように繋がる。」
 この本が戦後日本のポピュラー音楽と洋楽の関りを通して示しているのも、それに似たらせん模様の希望です。