
CDやライヴなどで聴いたカバー曲に惹かれる、ということが往々にしてあります。
最近のボブ・ディランのスタンダード・シリーズなんかもそういう役割は担うでしょうし、ジョージ・ハリスンが亡くなったすぐ後にI Need Youをロン・セクスミスのライヴで聴いて、あのシンプルな曲がこんなふうに響くのかと涙ぐんだ経験が私にもあります。また、ミラクルひかるが凄まじいモノマネで演じる中島美嘉の「ORION」の曲の佳さに感心したこともありました。カラオケで私が選んだ歌がきっかけで元のCDを買った、なんて話を聞くと、善行でもしたかのように嬉しいものです。
アンジーの名曲「銀の腕時計」を知ったのも、”カバー”からでした。
じつはこのアンジーというバンドについて、私はあまり多くを知りません。彼らが80年代に山口から福岡に拠点を移し、そこでまずはローカルな人気を得たこと、インディーズ・ブームやバンド・ブームを経て、ライヴを中心とした活動で、より広い地域の若いロック・ファンに知られていったこと、その程度を漠然とした印象でおぼえているくらいです。アルバムも、92年のベスト盤『雲をつかんだ日』しか聴いたことがなく、それすらもリリースから何年もたった後のことで、しかもバンドはとっくに解散していました。
じつはこのアンジーというバンドについて、私はあまり多くを知りません。彼らが80年代に山口から福岡に拠点を移し、そこでまずはローカルな人気を得たこと、インディーズ・ブームやバンド・ブームを経て、ライヴを中心とした活動で、より広い地域の若いロック・ファンに知られていったこと、その程度を漠然とした印象でおぼえているくらいです。アルバムも、92年のベスト盤『雲をつかんだ日』しか聴いたことがなく、それすらもリリースから何年もたった後のことで、しかもバンドはとっくに解散していました。
待てよ、90年代の終わりに私が勤めていたCDショップで再結成した彼らのイベントがあり、それがとても楽しかったのでメンバーの方々にお礼を述べたことがありました。でも、その際に、「『銀の腕時計』、ぼくの思い出の曲なんですよ」と言うのを忘れてしまいました。(追記 これはもしかすると私の記憶ちがいで、イベントはメンバーが新たに結成した別グループのものだったかもしれません)
「銀の腕時計」は、1986年にインディ・レーベルからリリースされ、その後にメジャーからも再発されたアルバム『嘆きのばんび』に収録されています。
これほど素晴らしい曲なのだから、アルバム・デビュー以前からライヴで人気を博していたであろうことは想像に難くありません。きっと、福岡のライヴ・ハウスに詰めかけた若者の心を揺さぶったのでしょう。草野マサムネもアンジーのファンだったと聞きます。そういえば、スピッツの音楽には「銀の腕時計」のイメージと重なる部分もあります。また、この曲にはチューリップを彷彿とさせるメロディーも木霊しています。
南からあらわれた「君」がいて、銀の腕時計を腕に巻いている。その時計の針は目にもとまらぬスピードでまわっています。
いっぽう、「ぼく」の腕時計は壊れていて、ずっとうららかな午後の野原でまどろみながら、夢を見ながら、時を費やしています。
ふたりは出会い、おそらく花を摘んだりして遊ぶのですが、「君」の時計は「もっと行け、もっと行け、もっと走れ」と急かし、やがて「君」は「ぼく」を通り過ぎて、峠の向こうに飛んでいってしまいます。
「ぼく」は相変わらず午後の時間の内側にとどまって、「君」にもう一度会えるなら、どうかその銀の腕時計をとめて、と呼びかけるんです。
いっぽう、「ぼく」の腕時計は壊れていて、ずっとうららかな午後の野原でまどろみながら、夢を見ながら、時を費やしています。
ふたりは出会い、おそらく花を摘んだりして遊ぶのですが、「君」の時計は「もっと行け、もっと行け、もっと走れ」と急かし、やがて「君」は「ぼく」を通り過ぎて、峠の向こうに飛んでいってしまいます。
「ぼく」は相変わらず午後の時間の内側にとどまって、「君」にもう一度会えるなら、どうかその銀の腕時計をとめて、と呼びかけるんです。
時間がふたりを出会わせて、時間がふたりを離ればなれにする。もちろん、「君」と「僕」のどちらが正しいとか間違っているとかではない。強いて言うなら、それぞれの生きかた。
この歌が胸を打つのは、「もっと行け、もっと行け、もっと走れ」と「君」を急かす銀の腕時計の声が、残酷でもあるけれど、それが「君」に与えられた生きる拍動でもあるのを「ぼく」には受け入れるしかないことを、歌い手が苦みのうちに噛みしめ、それを表現しているからです。だからこそ、よけいに「腕の時計をとめて」という呼びかけはせつない。
この歌が胸を打つのは、「もっと行け、もっと行け、もっと走れ」と「君」を急かす銀の腕時計の声が、残酷でもあるけれど、それが「君」に与えられた生きる拍動でもあるのを「ぼく」には受け入れるしかないことを、歌い手が苦みのうちに噛みしめ、それを表現しているからです。だからこそ、よけいに「腕の時計をとめて」という呼びかけはせつない。
思い出のストロベリー・フィールズにトリップしていた頃のジョン・レノンや、日なたぼっこに心を漂わせていた頃のレイ・デイヴィスも、この歌の中には感じられます(ピンク・フロイドの「イフ」も)。
いや、感じられるどころか、譲れない一線として確かに存在している。ほのぼのとした風景と空気を描き、多くの人に共有できる哀感を醸しながら、「銀の腕時計」はロックをロックたらしめる何かの強さと弱さについての歌でもあります。
86年の春に、大学で新入生の親睦を深めるためのハイキングがありました。バスに乗ってどこへ行ったのかはおぼえていませんが、緑の多い場所でした。
天候にはめぐまれていたものの、なにぶんまだ顔を合わせて間もない同士で、それほど会話がはずんでいたわけではありません。いくぶん、ぎこちなさもあったかと思います。
天候にはめぐまれていたものの、なにぶんまだ顔を合わせて間もない同士で、それほど会話がはずんでいたわけではありません。いくぶん、ぎこちなさもあったかと思います。
それぞれの専攻に分かれて、ちょっとした出しものというか、なにかのパフォーマンスを披露する時間がありました。といっても、お互いにノリが生まれていませんから、自然な盛り上がりというのも出ない。ああいうのはグルーヴが大事ですね。
私たちの専攻のパフォーマンスも見事にスベって、まぁ仕方ないだろうと苦笑していたとき、「よしっ、俺が歌っちゃるけん!」と名乗りをあげた猛者がいたんです。福岡からやってきた彼は、高校時代にバンドで歌っていた男でした。おおっ、と歓声があがり、私たちは彼を前に送り出しました。
私たちの専攻のパフォーマンスも見事にスベって、まぁ仕方ないだろうと苦笑していたとき、「よしっ、俺が歌っちゃるけん!」と名乗りをあげた猛者がいたんです。福岡からやってきた彼は、高校時代にバンドで歌っていた男でした。おおっ、と歓声があがり、私たちは彼を前に送り出しました。
「みんな知らないと思うけど」との前置きに続いて、そいつがアカペラで歌ったのがアンジーの「銀の腕時計」。本当にその場にいた誰も知らなかったバンドであり、曲でした。
さすがにステージ慣れしている彼は、たぶん博多の街で身にしみこませていたのでしょう、その曲のワン・コーラスを堂々と歌い終え、満場の喝采を浴びました。
カッコよかった。曲が良かったから彼がカッコよく見えたのか、その逆なのか、おそらく両方だったはずです。私もいい曲だなぁと惹かれたし、いいヤツだなぁとそいつのことが好きになりました。そのとき、ようやく屈託ない笑みがみんなの顔に浮かびました。
さすがにステージ慣れしている彼は、たぶん博多の街で身にしみこませていたのでしょう、その曲のワン・コーラスを堂々と歌い終え、満場の喝采を浴びました。
カッコよかった。曲が良かったから彼がカッコよく見えたのか、その逆なのか、おそらく両方だったはずです。私もいい曲だなぁと惹かれたし、いいヤツだなぁとそいつのことが好きになりました。そのとき、ようやく屈託ない笑みがみんなの顔に浮かびました。
私たちの大学生活の始まりの始まりに、「銀の腕時計」という、別離や終わりを孕んだ曲があった。
考えてみれば、これは不思議な取り合わせです。だって、私たちの時計はそのとき、猛烈な速さでまわり出したところだったのです。誰かに急かされるまでもなく、「もっと行け、もっと行け、もっと走れ」と動きだしていた。私はセカセカと毎日を送るのなんかマッピラで、好きな本を読んで好きな音楽を聴いてのんびり過ごしたい若者でしたが、それでもやはり、腕時計の針は有無を言わさず進んでいっていたのです。そして、そのことにはまったく気づいていませんでした。
始まりには終わりが宿っているのかもしれない。でも、あのときは「銀の腕時計」という曲を、こんなふうに過去に片想いするみたいな心持ちで振り返るなんて、思ってもみませんでした。
そこにあったのは、まだ名前もおぼえていない、みんなの顔と手拍子。晴れ渡る空の青と木々の緑。歌っているあいつの姿と、「銀の腕時計」。4月の風に放たれていく、「そして君が隣にいれば、腕の時計をとめて」。
そこにあったのは、まだ名前もおぼえていない、みんなの顔と手拍子。晴れ渡る空の青と木々の緑。歌っているあいつの姿と、「銀の腕時計」。4月の風に放たれていく、「そして君が隣にいれば、腕の時計をとめて」。
真っさらなまでに、それだけだったんです。