勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

おもに1985-1995のロックについて、当時のことを思い出しながら綴ります。ほかにもいろんなタイプの音楽の記事があります。当方1968年生まれ。

 40年来の家族ぐるみの付き合いというか、私が中学生の頃からお世話になってきた知人のKさんが先日亡くなって、あれこれ思い出をたどっている時に南佳孝の『Last Picture Show』というアルバムのことが心に浮かびました。
 リリースされたのは1986年の2月26日で、私が初めて聴いたのも数週間後だったと思います。大学の入学式を控えてブラブラしている私がKさんの家に遊びに行った際にレコードをかけてくれたのです。
 当時、Kさんは37歳で、家庭を持ち、親から会社を継いで経営していました。アウトドアにオーディオと趣味も広く、国内外のポップスやフュージョンもライトに楽しむ人で、私には初めて出会うタイプの大人でした。「南佳孝って知ってるか?」と訊かれたので、「スローなブギにしてくれ」なら中学2年のときに好きだった、と答えたようなおぼえがあります。
 その時点で、それは5年前のヒット曲でした。思春期の私の記憶からは消えかけていたし、南佳孝とはっぴいえんどやムーンライダースとの接点などは知りませんでした。どうしてそんなことを訊くのか不思議に思っていると、彼はなにも説明せずに『Last Picture Show』のレコードを取り出し、歌詞などが刷られたブックレットを私に手渡して、盤に針をのせました。

 このアルバムはコンセプチュアルな作品です。1950年代から1980年代までに日本でも公開された外国映画を題材に、松本隆が作詞して南佳孝が作曲し、井上鑑がアレンジした13曲が収められています(「大人は判ってくれない」のみがインストゥルメンタル)。
 アルバム・タイトルの『Last Picture Show』はピーター・ボグダノヴィッチ監督の映画『ラスト・ショー』の原題です。それはアメリカの田舎町に生きる若者たちの物語で、その町に一つだけあった映画館はやがて閉館の日を迎えます。
 ブックレットには歌詞のほかに、松本隆の書いた短編小説『ラスト・ピクチャー・ショウ』と、南佳孝が映画について綴った「光と影」が掲載されていました。クレジット表記はCast、Screenplayなどと分けられており、細部にもトータル性が重視されていました。
 映画マニアを気取っていた私のこだわりを刺激されるところも多く、Kさんがそのレコードをかけることで暇そうな若者をもてなしてくれたのだろうと、気づかいが嬉しくもありました。「ダビングしてあげよか?」と言われたので「お願いします」と頼みました。

 「ミーン・ストリート」「ジョンとメリー」「水の中のナイフ」「理由なき反抗」「突然炎のごとく」「スケアクロウ」・・・古い名作と同じタイトルの曲が並んでいました。「ダイナー」や「フラミンゴキッド」のように1980年代の作品の名前もあります。「シュガーランド・エクスプレス」はスピルバーグの『続・激突!カージャック』の原題で、さすがに邦題ではマズいと判断したんだろうな、などとニヤニヤする。18歳になったばかりの私は、趣味に関する自負をくすぐられました。こんなふうに映画にインスパイアされた曲だけでアルバムを作るなんてオシャレだなと、大人のクリエイティヴな遊びに憧れたりもしました。
 けれど、ダビングしてもらったテープを映画との繋がりで心地よく聴いている時間は長続きしませんでした。4月に大学の門をくぐった途端に真新しい生活が始まって、新しい人々と出来事が奔流のように押し寄せてきて、それどころではなくなったのです。私はこのアルバムをほかのいくつかの事柄と一緒に3月に置いてきてしまいました。

 『Last Picture Show』をCDで買ったのは私が30歳になった年です。そのあいだに、はっぴいえんどの『風街ろまん』やムーンライダースの『カメラ=万年筆』、そして南佳孝の『摩天楼のヒロイン』や『冒険王』といったアルバムも聴くようになっていました。

 再会した『Last Picture Show』には、これほど情感を湛えた珠玉の一枚だったのかと、十代の頃よりも深い感銘を受けました。昔聴いたアルバムを聴き直してみよう、という程度の軽い気持ちでCDを手に入れて、淡いセンチメントの滲んだドライなロマンティシズムに心打たれたのです。

 前にも似たようなことを書いたのですが、たとえば1986年には1986年が最新の時点であり、さまざまな出来事におぼえる感触もそこが最新です。その感触がどう変化してゆくかなんて、いちいち予想はしません。時が過ぎ去ったあとで、あれを新しがって浮かれていたのかと思い返すものです。このアルバムがリリースされた時、発売間近のローリング・ストーンズの『ダーティ・ワーク』は待望のニュー・アルバムだったし、映画では『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の大ヒットがつい昨日のことでした(まだロングランしていたかもしれませんね)。それらはあっという間に過去になり、歴史の一部になりました。
 けれども、人間は昔感じた喜怒哀楽を下地に残しつつ記憶を上書きすることができます。過去を透過した形で現在を更新できるんです。そこに重層的な慈しみが生じます。

 『Last Picture Show』から伝わってくるのも慈しみに似た眼差しです。リリース時の松本隆と南佳孝は30代の後半で、もちろん老境の慈愛とは別ものですが、何かが終わって、でもスクリーンの中に映る外国の風景や別の国の俳優たちの向こうからまだ感情の残り香が漂ってくる、でも自分は二度とそこに戻ることはできないのだという、苦みを捨てずに甘さを覗きみるような眼差しがこのアルバムにはあります。ノスタルジックな語り口の曲が多く収められていても、枯れてはいません。枯れてもいないし未熟でもない、落ち着きと分別の備わった温度で過去の「浮かれ」に慈しみの視線を送っています。

 1950年代から1980年代と選ばれた映画の時代背景には幅があるのですが、どの曲からも1970年前後の日本で海外の映画や音楽に触発された若者たちの姿が浮かび上がってきます。松本隆(1949年生まれ)の歌詞だけではなく、南佳孝(1950年生まれ)の作るメロディーやコード進行にも、シンセサイザーと生のストリングスやブラスを巧みに配合した井上鑑(1953年生まれ)のアレンジにも、彼らが若かった日々に培ったものがセンスや技、なによりも指針となって光り、なおかつ1986年のコンテンポラリーなサウンドの上で1970年の東京を舞台にした青春映画の最新作を描き出しているのです。

 それが1980年代に若者だった私の胸を躍らせて、中年になって聴くと、自分とは世代が違っていても隅々にまで愛おしさがこみあげてきます。その点では、これよりもっとパーソナルなシンガー=ソングライターの作品ではあるけれども、仲井戸麗市のソロ・アルバム『絵』に近いところも感じられる作品です。

 映画を題材にしていると言っても、もとの作品の内容と緩やかに触れながら独自の物語を紡いでいます。「ミーン・ストリート」には六本木に実在したソウル・バーが登場するし、「華麗なるギャツビー」は東京を舞台にしていると考えられます(バブル景気に入ってゆく時期に置き換えることもできます)。

 また、最初の「ダイナー」と最後の「避暑地の出来事」ではそれぞれに「あの日のスクリーン」「昔見た映画が過去へ連れ去る」と、アルバム全体のコンセプトがサラリと歌われています。「理由なき反抗」ではジミーの名がコーラスで呼ばれて、「ラスト・ショー」になると深夜の映画館でジョン・ウェインの死に言及して、もとのボグダノヴィッチ監督の映画が鮮やかに重ねられます。
 

 これらの物語がアメリカン・ポップスや1960年代のソウル・ミュージックのリズム、あるいはヨーロッパの映画音楽のリリカルなメロディーを基にした音楽に包まれています。エモーションを内側に溜めて静かに置き去るような南佳孝のヴォーカルは、齢をとっても手離せない大切なものと、若さの裏にある蒼い達観を結んで、苦くも懐かしい、懐かしくも苦い表情を物語にもたらします。

 南佳孝の歌う「~だね」「~さ」には、ほかのシンガーには出せない彼独特の、まるで投げやりに振ろうとする腕をためらって引き戻すかのような迷いと決意の入り混じった感覚があります。そのブレスが醸し出す大人の男の色気は逸品です。どの曲の主人公にも、放っておけない魅力があります。

 とくに素晴らしいのはフランソワ・トリュフォーの名作をベースにした「突然炎のごとく」。朝靄を思わせるストリングスに導かれて、物憂いメロディーにのせて「天然色の森をあなたは駆け抜けて」と始まるこの曲の沈んだ優美さは、あの映画そのものというよりも、あの映画を観ている若者のデリカシーの揺れを言葉と音楽で豊かに表現しています。
 このアルバムは映画へのオマージュの性質を備えつつも、それぞれの作品に感銘を受けた観客の、人生の一瞬一瞬のサウンドトラックとしても受け取れるのです。こんなふうにこの映画を観た、この映画を観たあとで自分の一日をこんな気分で過ごした、自分のあの恋はあの映画の一場面を想像させた・・・映画のような瞬間を生きていると感じる時の、たとえ錯覚にすぎなくとも心を満たす幸福感が本作には溢れています。
 つまり、このアルバムのスクリーンに映されるのは、もとの映画から何かを注がれた人の感性の物語なのです。もとの作品をトレースするだけではなく、作品から観客に伝わったものをエッセンスにして、べつのフィクションを膨らませています。それが乾いたロマンティシズムで描かれているアルバムです。

 それはたぶんに団塊の世代が成長する過程で身につけたロマンティシズムと言えるかもしれません。1980年代に青春期を過ごした私には、海外のポピュラー文化に向けるこうしたロマンをまだ理解できますが、今の一般的な若い人には難しくなっているでしょう。
 しかし、現在がいつか昔に属してゆくことをあらかじめ引き受けたようなドライさと、手繰り寄せた過去の瑞々しさがせつなく交錯するこの『Last Picture Show』の味わいは、どの世代であれ、誰もがいつか噛みしめる時がくるという意味で普遍的でもあります。きっと、私はこれからも折にふれて聴き返し、その度にべつの感慨が加わって愛着も深まるのでしょう。今52歳の私は18歳のときよりもこのアルバムが好きです。
 
 ただ、亡くなったKさんが何を思って大学入学前の18歳にこれを聞かせたのか、わかりません。もう答えを知る術もなくなってしまいました。
 映画の好きな少年だから興味を持つんじゃないかと考えたのか。彼が同年代の南佳孝と共有できるものがあることを、それとなく伝えようとしたのか。
 それとも、青春の本編を前にしてブラブラしている私に予告編を見せるようなつもりだったのか。いろいろ起きるから、ボヤボヤするなよ、と。悪戯っぽいところのある人だったので、そうだったのかもしれない。
 もしそうだったのだとしたら、ちゃんと自分が主人公の映画を自分のスクリーンに映せよ、とのアドバイスも含まれていたのかな、と拡大解釈したくなります。
 私の実際の本編は予告編よりは凡庸だった気がします。でも、予告編って本編より面白そうに見えるものじゃないですか。

 

関連記事:仲井戸麗市/絵