勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

勝手にシドバレット(1985-1995のロック、etc.)

おもに1985-1995のロックについて、当時のことを思い出しながら綴ります。ほかにもいろんなタイプの音楽の記事があります。当方1968年生まれ。

(↑パンフレット。充実した内容なので、おすすめします)

 

 ふだん映画館に着くのは上映の10分前なのだけど、この日は1時間も前にTOHOシネマズに入りました。すでにIMAX上映の最前列席を予約していたから、その必要はまったくなかったわけです。
 しかし私の足は家でくつろぐことを許さず、駅へと向かい、電車の中では乗客が全員『エルヴィス』を観に行くかのような錯覚に口許を緩ませ、映画館では真っ先にパンフレットを確保し、ひと袋に12枚が入ったエルヴィスのトレーディング・カードを4パックも購入したのでした。

(↑トレカ。まだ一袋しか開封してませんが、おみやげにどうぞ)

 

 それくらいにこの映画を楽しみに待っていた私でしたが、じつは不安要素もあったんです。監督がバズ・ラーマン。『ロミオ+ジュリエット』『ムーラン・ルージュ』『華麗なるギャツビー』・・・どれも意欲的な作りの映画ではあるけれど、この監督のやたらとキンキラキンキラした光沢を放つ画面や、せわしない編集が私は苦手です。しかも予告編で見るかぎり、エルヴィス役のオースティン・バトラーはあまり顔が似ていないし。
 ただ、悪名高きマネージャーのトム・パーカー大佐の視点で描かれるという話を聞いて、それは『華麗なるギャツビー』っぽくて面白いかもしれないなと、ある程度の期待は持っていました。

 結論から言うと、これは秀作です。楽しかったし、感銘を受けました。終わったあとも、ずっと心が嗚咽していました。
 もっとも、たとえば『ボヘミアン・ラプソディ』のような、ストレートに盛り上がって泣ける伝記映画を期待するとアテがはずれるかもしれません。『エルヴィス』は監督の作家性が前に出ています。
 それはオープニングから濃厚で、『市民ケーン』を匂わせる小道具類がキンキラと輝いて、観客を虚実の境目に「呼び込む」(この言葉については重要なので後述)演出に、うわあバズ・ラーマンの映画だ、と私も腰がひけてしまいました。大丈夫かな、という不安がいきなりマックスに達したのです。

 子供時代の回想を挿みながら、映画はエルヴィスの歌手としてのキャリアを追っていきます。省かれた理由がわからない重要なエピソードもあるし、フィクションとして盛り込まれた部分もあります。映画のための取材で作り手が得た実感も織り交ぜているのでしょう。プリシラ・プレスリーの描かれ方なんかは、演ずるオリヴィア・デヨングの力もあって、丁寧に人物造型がなされています。
 そのうえで、トム・ハンクスがパーカー大佐を快演して出色です。エルヴィスや登場人物たちのみならず観客までもが、この山師くさい男の口八丁手八丁に振り回されます。腹が立つんだけど、勝負の世界では常に一定の理にかなったポジションをおさえている。エルヴィスが「パーカーがいなければ自分はここまで来れなかった」と認めざるを得ないように、観客もシンプルに善悪で割りきれず、弱みを隠し持った胆力の強さをこの男から受け取るようになります。
 逆に言うと、その「信頼できない語り手」の面白さを感じ取れなかったら、本作の長尺はキツいかもしれません。この映画はエルヴィスの伝記であると同時に、人と人が欲得ありで繋がることの、それもまた人間の営みなのだという本質を描いているのです。

 そしてタイトル・ロールのエルヴィス役に抜擢されたオースティン・バトラー。観る前は現代的な線の細さが気になっていたのですが、エルヴィスの人気が全米に波及し、体制側から激しい非難を浴びてゆく過程で、バトラーのデリケートな陰翳が徐々にエルヴィスの戸惑いや両親への思いと重なっていきます。
 なにがいいって、最初に描かれるステージでエルヴィスが客席の女性たちの嬌声の理由を飲み込めていない様子がいい。極度の緊張が、子供時代に洗礼を受けたブルースやゴスペルの熱狂と結びついて、のちに「ペルヴィス(骨盤)」と揶揄されるようになる腰振りを生み出すトランス描写は本作のひとつの白眉です。
 世界で初めてのロックンロール・スターという存在になって、今度はその危険分子のイメージを和らげるためにパーカーが取った、ある葬儀でのマスコミ対策。ここは思い出すだに胸が張り裂けそうになるのですが、そのあたりからオースティン・バトラー自身の魅力がエルヴィスという枠をいっぱいに満たします。
 そして時間がたって1968年の『カムバック・スペシャル』では、エルヴィスからオースティンが溢れ出てくるのです。この伝説的なエピソードのシークエンスは「ものまね」的な再現度も高いのだけど、観ている私はいつの間にかオースティン・バトラーに声援を送りたくなりました。この段階で、顔が似ているとか似てないとか、どうでもよくなっていました。彼の演じるエルヴィスをずっと見ていたくなったんです。終盤も、とにかくこの人を助けてあげたい気持ちになる。

 ちょっと熱さましに豆知識めいた話を書きます。
 この『エルヴィス』には、ある言葉と具体的な物が繰り返し用いられています。言葉はsnowで、物は窓です。

 本作を観て、なんでこんなにsnowという言葉が何度もセリフで発せられるのか、よくわからないままに気になった人も多いでしょう。
 snowはもちろん「雪」ですが、汚いものを覆い隠すことから派生してか、「口車にのせる」といった意味で使われる場合もあるようです。まさにこれはパーカー大佐を象徴する言葉でして、彼はSnowmens League of America(全米雪だるま同盟)なるプライベートなクラブを主催していました。主催といっても実体のないクラブで、要はパーカーが自分の見込んだ人物を「会員にしてあげる」だけの、遊びのクラブでした(「メロンパン同盟」とか、そういう類です)。エルヴィスもその「会員」に選ばれた一人。
 このSnowmens League of Americaには元ネタとなった実在の団体があって、カーニヴァルやお祭りなどの興行関係者の組合で、そちらの名称はShowmens League~です。パーカー大佐はsnowとshowをかけたんですね。じつに味わい深い洒落です。『エルヴィス』の作中でパーカーがクリスマスの風物にこだわるのも、このsnowと関連させていると思います。
 で、映画のネタバレをしない範囲で言いますと、パーカー大佐は戦後すぐにカーニヴァルで「呼び込み」をやっていた人なんです(「大佐」は軍隊にいたことから付けられたニックネームで、坂本龍一を「教授」と呼ぶような感じ)。『エルヴィス』の前半ではパーカーとエルヴィスが観覧車に乗っている重要な場面もあり、つまりパーカーはお祭りでエルヴィスを「呼び込む」わけです。
 「呼び込み」は他人に物怖じしていては出来ないし、ホラだって吹くし、そこで培った才能が彼には大きかった。だから、パーカーは本作の観客にとって「呼び込み」でもあるのです。そういうところにも彼の「信用できない語り手」の面白さが含まれています。

 次に窓ですが、この作品では建物の窓が頻繁に映ります。子供時代のエルヴィスがある光景をのぞき見して天啓にうたれるのは、窓のかわりの「隙間」です。エルヴィスが両親と暮らす公営住宅の窓もそうだし、彼がB.B.キングやシスター・ロゼッタ・サープやリトル・リチャードと楽しい時間を過ごすクラブも窓が印象的です。軍隊時代にプリシラとイチャイチャしている寮の場面なんか、窓から始まります。ラスヴェガスのホテルの部屋もそうです。まず窓を映し出す。
 それから、ロサンジェルスで有名な、丘に立っている"HOLLYWOOD"のサインが出てきます。その裏っ側でエルヴィスがキャリアの仕切り直しを決意する、とても大切なシーンですが、そのときに彼は"O"の文字の内側に腰かけていたと思います(1回しか観てないので、違っていたらごめんなさい!)。これもまた窓に見えるんですね。
 これほどまでに窓、窓、窓。窓がいっぱいです。
 もちろん、窓もしくは窓枠越しに人物を捉えることで、自由のきかない、幽閉されている感覚をもたらしているとも言えます。とりわけラスヴェガスのホテルの窓はそういう効果をあげています。また、この作品のストーリーがパーカー大佐の語りに導かれているという「枠」も意識させます。それは信用できないのだけど、観客は彼の口車に乗せられるし、そこで語られる内容は心を鷲掴みにします。脚色があるからこそ、それが生きてくるんです。フィクションって、そういうものじゃないですか。
 
 そして雪と窓といえば、私が思いつくのは『市民ケーン』の序盤です。

 あの有名な「バラのつぼみ・・・」のオープニングの後、子供時代のケーンを描いたエピソードが始まります。そこにまず何が映っているか。

 雪に覆われた庭と、子供と、雪だるまです。カメラが手前に引くと、それは窓の外の光景だとわかる。

 ほかにも『市民ケーン』は、天窓へと移動してゆく驚異的なカメラ・ワークでも有名です。なによりも、貧しい境遇から成りあがってアメリカの「キング」となった男の話ですよね。
 
 いかん。ものすごい脱線をしてしまいました。熱さがってないじゃないか。もとに戻して締めにかかります。


 私が『エルヴィス』に感激したのは、1970年代のラスヴェガス期をクライマックスで重視しているからです。そこからエルヴィスは早すぎる晩年に入るのだから当然ではあるのだけど、ロック・ファンのあいだでは評価も低く顧みられることの少ない時期を、音楽とステージ・パフォーマンスも込みで、じっくりと描いています。
 人間関係やアメリカという土地に縛られて、本人も若い頃のような体調と体型は取り戻せなくなって、それでも天性の歌唱力で観客を魅了することができる、最後の光とその残酷さ。リハーサルで曲がどんどん南部仕様のグルーヴを得てゆく描写も嬉しいし、その裏で確実に進行している生命のカウントダウンを思うと、パーカー大佐の飽くなき欲望でさえもがエルヴィスを現世に繋ぎとめているかのようです。
 映画全体がヒネりを利かせていながらも、じつは骨太の流れで観客を運んでいたと思い知らされるのも、この終盤です。1970年代のエルヴィスがおざなりに描かれておらず、むしろ自由に動けなくなってからの「もがき」に集約されるものに、苦いけれども真実の輝きを捉えているところが、この作品の深みでしょう。

 などとゴチャゴチャ書いてきましたが、観終わった直後に私が言いたくなったのは・・・オースティン・バトラー版のトレカも作ってくれ!4パック買うから!!

 

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