先日、私が書いたブログ記事(『【悲報】ネトウヨさん、16歳アイドルにガチギレして国籍透視&売国奴扱いしてしまう( ;∀;)』)に対して、ヤン・ウェンリーさんがリブログで解説を書いてくれたのですが、読んでみて思わず笑いそうになってしまいました。
この記事では、主観的認識と客観的認識の分離という概念を料理人の例え話を用いて説明しているのですが・・・
料理ってのは不思議なもので、どの料理人も別に意識してはいないのですが、つねに「主体と客体の並置と調整」が求められたりします。つまり主体は「自分の作りたい料理と作りたい味」でありますが、客体の「お客にうける料理であるかどうか?」という視点も必要になるわけです。この2つは常に合致するわけではありません。
さて、とある料理人が客にうけることだけを考えて料理した場合・・・主体(個性)がなくなり「どこにでもある味」になってしまうので、遠からずお客さんは離れていって、その料理店には閑古鳥が鳴くことでしょう。客ばかりに視点を傾けると、客はプロじゃありませんからいい加減な意見しか言えない。したがって無難な味にならざるを得ないのですね。
だいたいの定番の料理漫画などでは大御所なりが「君の料理には、君が見えないっ!料理から君の顔が想像できない!」とかなんとか言って、料理人は目覚めるわけです。そう、すなわちナショナリズムならぬアイディンティティズム?的なものに。「そうかっ!俺自身が納得する味を出したらいいんだ!」と。
でもこれが行き過ぎると「俺の味がわからない客が悪い!」という、またもや変な状態に陥ってしまう(笑)一部のカルト的リピーターはつくかと思いますけども。偏屈なラーメン屋のオヤジ的なあれですね。
この「客ばかり気にすること」の軸を「俺の味を押し付けること」に置き換えるのが、カツトシさんの議論で言うところの「グローバルな価値観をローカルでナショナルな価値の基軸に完全に置き換えて価値観を転換させる」に当てはまり、当然ながらカツトシさんは議論の中で「これはちゃうんちゃう?」と言っているわけです。
料理人の例で言うのならば「客がどう感じるか?という視点は忘れないようにしつつ、自分の味をしっかりと出していく」という「主体と客体の並置、いわゆる中庸やバランス」が求められるわけです。
なんで笑いそうになったのかというと、実はコレと全く同じような話を100年以上前に夏目漱石もしていたからなんですね・・・
夏目漱石の『三四郎』『それから』『門』の3作は青春三部作と呼ばれ、似たような登場人物が登場し、段々と精神的に成長していって、最後の『門』でなんとなくくたびれて達観した感じで終わりますwで、まあここ数日の記事では『三四郎』について少し紹介していたのですが、その実質的な続編である『それから』でまさにヤン・ウェンリーさんが用いたように料理人のたとえを使って、主観と客観の認識の違いについて登場人物二人に議論をさせているのです。
主人公の代助は金持ちの商人の家に生まれた高学歴(多分東大卒)ニートで、平岡は普通の家に生まれた代助の中学校時代からの友人です。地方の銀行勤務でトラブルに巻き込まれ、東京に戻ってきた平岡は、ある日働かずに偉そうに空虚な理想論を語る代助にイラッときて、「お前も働けば?」的なことを話します。
「君の様な暇人から見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」
平岡は饒舌(しゃべっ)てるうち、自然とこの比喩に打ぶつかって、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所で得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑いをした。すると平岡はすぐ後を附加えた。
「君は金に不自由しないから不可(いけ)ない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、――」
代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手を遮ぎった。
「働らくのも可いが、働らくなら、生活以上の働きでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭(パン)を離れている」
平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔を窺うかがった。そうして、
「何故」と聞いた。
「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」
「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来悪にくいと云う意味さ」
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方どっちが目的だと思う」
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食い易やすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって9、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られれば好いいと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至ないし順序も悉く他たから制肘される以上は、その労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、どうも。それで一向差支さしつかえないじゃないか」
「では極ごく上品な例で説明してやろう。古臭い話だが、ある本でこんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱えたところが、始めて、その料理人の拵えたものを食ってみると頗(すこぶ)る不味まずかったんで、大変小言を云ったそうだ。料理人の方では最上の料理を食わして、叱しられたものだから、その次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがって、始終褒められたそうだ。この料理人を見給え。生活の為に働らく事は抜目のない男だろうが、自分の技芸たる料理その物のために働らく点から云えば、頗る不誠実じゃないか、堕落料理人じゃないか」
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇(ものずき)にやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」
ただ、まあこの話などの場合は、「主観的な価値感=高尚な理想論」「客観的な価値感=妥協的な現実主義」という構図になっていて、日本的価値観と国際的グローバルな価値観の対比とは対照的な関係になっているんですね。現在の状況では、「グローバルな価値感=空想的な理想論」「日本国内の価値感=直感的な現実主義」というカタチになっていますから。
ただ、まあ100年前に書いた本で、現在にもそのまま通じる。「理想主義と現実主義」「主観的価値と客観的価値」という価値感の対比を認識し上手く作品の中で表現している手法は流石だなと感じます。あるいはもしかするなら、明治維新を経て、国際社会の荒波に飲まれまいと抵抗していたあの時代だからこそより切実にこれらの価値の対比を認識していたのかもしれません。現在においては、グローバリズムとアンチグローバリズムとの価値の対立という文脈の認識で構わないのですが、あの時代においては、海外や国際社会の技術や制度、思想や価値感を取り入れつつ、軍事的にも経済的にも文化的も欧米列強諸国に飲み込まれないようにしなければならないという厳しい緊張関係が存在したワケですから。もっとも、これらの厳しい認識と緊張関係は本来現在においても当時の状況まったくそのままに切実に必要とされているハズなのですが・・・(-_-;)
ちなみに、これと似たような話を実は三島由紀夫も何かのエッセイで書いていました。確か、フランスで料理修行した日本人が日本に帰ってきて、フランス料理店を開いて、日本人向けに本場で学んだ本物のフランス料理ではなくあえて凡庸なビーフシチューを出すという話だったような・・・。
まあ、料理というのは誰でも食べるし、舌が肥えている人間と肥えていない人間の差や、文化の差などが出やすいので、このような主観と客観の価値感の違いを説明する例として分かりやすいのかもしれないですね。
ヤン・ウェンリーさんの記事の
>だいたいの定番の料理漫画などでは大御所なりが「君の料理には、君が見えないっ!料理から君の顔が想像できない!」とかなんとか言って、料理人は目覚めるわけです。
というくだりを、「あー、あるある(笑)」なんて思いながら読んで、ついでに、漱石も同じことを書いてたなーなんて思ったので少し書いてみました。
まあ、もちろんコレもどっちが正しくてどちらが間違ってるという単純な話でもないのですが、一方で、グローバル派VS国粋主義者みたいなバカバカしい対立に凝り固まるのではなく、もっとうまい議論や意見の調整が可能になれば良いのになーなんて素朴に考えたりしています(まあ、私自身が対立意見をボロカスに批判するタイプなのであまり簡単でないのは理解しているのですが・・・)。
↓先日の放送のアーカイブ動画です・・・
↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★
↓新しい動画投稿しました!!