現代貨幣論に関するソウルメイトさんの記事が面白かったので、今回はコチラの記事に関連してアレコレ書いていきます。

 

 

 結構長いので、全体の内容は紹介しませんが、まあいわゆる現代貨幣に対しての疑問を書いています。

 

 特に私が共感したのが、「物々交換の市場が存在した証拠が見つかっていないからといって、それが無かったと断言できるのか?」という点です。

 

 私が、なぜ今回この記事を取り上げたのかというと、私自身、過去にフェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論』を読みながら、何かこうストンと腑に落ちないところがあったからです。また、基本的には歴史的な考証に大部分が割かれていて、中野剛志さんのようにマネーの理論や概念を機能的財政論などに結びつけて政策論との関連性を論じるような著作でもなかったので、それが画期的な理論であるとは感じつつも、具体的にどのように経済や政策論に対して現実的影響を持つのか?という理解を整理し切れていなかったこともあり、長いあいだ深く言及することはありませんでした(特に、この貨幣論が一部界隈で頻繁に言及されるようになったのは中野剛志さんの『富国と強兵』の出版以降であり、中野剛志さんがあれほど理路整然としたクリアなカタチで論理を提示していなければ、この貨幣論がここまで盛り上がることは無かったかもしれません)。

 

 で、まあソウルメイトさんは、現代貨幣論の物々交換は無く、最初にあったのは貸し借りの記録であり、そこから派生した借用書が現代の貨幣に繋がったという理論に疑問を呈しているのですが、確かに、物々交換経済の記録がないからといって物々交換そのものを否定するのは難しいように思います。理由として、まず一つは、モノの交換や貸し借りの記録は保存されますが、物々交換であれば、その場で取引が成立するのでそもそも記録に残す必要が無いという点です。この意味において、物々交換経済の記録の証拠を探すよりも、異時点間の受け渡しや貸し借りの記録の証拠を見つける方が遥かに容易であることは確かでしょう。

 

 それから、もう一つ思うのが、物々交換を取り扱う巨大な市場の存在が無くてもおそらく物々交換そのものが無かったと考えるのは無理があるということです。例えば、男は狩りをして、女は森で木の実を集めるような集落が存在したとして、そこの集落では、皆に平等に獲れた獣の肉と、木の実を分け与えたとしましょう。その時に、おそらく、木の実が苦手な者がいれば、木の実と肉を交換しようとしたでしょう。しかし、このような物々交換において、「何月何日に木の実と鹿の肉を交換した」とか記録に残すことは無いでしょう。

 

 私が、なんでいちいちこんなことに言及するかというと、以前何かの本で読んだサルの集団の話で、メス猿が売春を行うということが書いてあったんですね。要は、雄ザルを誘惑してから性器を手で塞いで雄ザルの持っている餌を渡してもらうように要求する、と・・・wコレって、考え方としては極めて物々交換に近いですよね?食べ物と性を交換しているワケですから。となると、サルの集団であっても、物々交換はあったワケで、サルの集団であるのに、人間の集団ではそれがないとはちょっと考えにくい(これは、もちろん物々交換を行うための市場システムが存在したという話ではありません)。

 

 で、コレは中野剛志さんの説明を聞いて違和感を覚えたのですが、中野剛志さんはイングランド銀行の解説を使ってロビンソン・クルーソーとフライデーの交換というたとえを用いているのですが・・・

 

 イングランド銀行による解説は、孤島におけるロビンソン・クルーソーとフライデーによる物々交換という想定から説き起こしている。

 たとえば、孤島のロビンソン・クルーソーは野いちごを集め、フライデーは魚を獲ってきて取引する場合には、二人は、野いちごと魚を同時に交換する。この場合は、貨幣はなくとも、取引が成立する。

 しかし、実際の取引では、財・サービスの交換は、同時に行われることはきわめてまれである。たとえば、クルーソーが野いちごを収穫するのは夏だが、フライデーが魚を獲るのは秋になってからだということもあろう。

 この場合、仮にクルーソーは夏に野いちごをフライデーに渡しておいて秋になってフライデーから魚を受け取るものとしよう。そうすると、クルーソーには、夏にフライデーに対する「信用」が生じ、反対にフライデーにはクルーソーに対する「負債」が生じることになる。そして、フライデーのクルーソーに対する「負債」は、秋にフライデーがクルーソーに魚を渡すことで解消される。

(『富国と強兵』中野剛志)

 

 この説明は、もちろん取引には時差が生じるのが一般的であり、その時差を解消するために「信用/負債」関係が生じるということの説明なのでその点に関して問題は無いのですが、それでも喩えがあまりよろしくないというか貨幣と商取引の成り立ちの説明として結構強烈な違和感があるのですね(もっとも、これはあくまでイングランド銀行の解説であり、中野剛志さんが考えた喩えではないようですが・・・)。

 

 この説明で、何がオカシイと感じたかというと、そもそも人間というのは集団で行動する動物なので、クルーソーとフライデーのようにたった一人で生きて、生活し、商取引のようなことを行うことが考えにくい。言い換えると商取引が存在するということは社会集団が形成されているはずなのに、にもかかわらずクルーソーやフライデーのように人類が一人で孤独な生活を送っているということに違和感があり過ぎるのです。実際問題として、クルーソーは無人島に漂流して独力で生活していくという特殊な生活をしているので、これを一般的な例とするには無理がある(笑)

 

 で、この喩えでもう一つ違和感があるのは、おそらく商取引が始まった初期段階においては、現代のような私有財産の概念を想定するのは難しいだろう、と。つまり、山で生活する部族は山で狩りをしたり野いちごを獲ったりして、それを皆で分けて生活するだろうし、海岸で生活する部族は皆で魚を獲って生活し、それを皆で分け与えて生活するだろう、と。そうなると、個人の私有財産の概念は想定しにくいし、皆で獲得した食料を皆で共有する原始共産制的な生活を想定すべきであって、イチ個人が野いちごを自分用にとっておいて、別の集落で、同じように自分用に魚を貯め込んでいた個人と集落を抜け出してこっそりと取引を行うという状況が想像しにくい。

 

 そうなると、おそらく「初期の商取引は個人間の取引ではなく、部族間の財の交換だったのではないか?」と想定できると思うんです。で、この辺のことを解説してたのが『負債論』という本みたいで、私はこの本自体は読んでいないのですが(いつか是非読みたいと思っていますが)、内容がまとめた文章があったので引用・・・

 

 歴史を振り返れば、貨幣が発生したのは、紀元前3000年ほど前、メソポタミアのシュメール文明においてである。貨幣は官僚によって発明され、都市に貯蔵される物資を集めたり分配したりするのに用いられた。その貨幣は金属片ではなく、粘土板に刻まれたしるし(仮想貨幣)だった。

 貨幣をつくったのは国家にほかならない。国家は常備軍を維持するために、兵士に貨幣を配布し、それで食料品をはじめとする物資を調達させた。いっぽう、国民にたいしては、税を貨幣で払うよう求める。すると、この貨幣は流通しはじめ、市場が生まれたのだ。国家と市場はつきものであり、国家なき社会は市場も持たないと著者はいう。

 メソポタミアでは、神殿の役人が商人たちを国外に派遣し、羊毛や皮革を売らせて、国に足りない木材や金属を買わせていた。そのため仕入れの前貸しとして渡されたのが貨幣である。貸し付けは利子をともなって返済されなければならなかった。


 やがて、貸し付けは商人だけではなく農民にもおよぶようになる。農民はしばしばその負債に堪えきれず、歴代の王は権力の座につくとき債務取り消しの特赦を発令するのが慣例になった。貨幣と市場は国家によって生みだされ、人びとは国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと著者は考えている。そして、負債もまた貨幣とともに発生した。

 貨幣の歴史は負債の歴史でもあり、血と暴力によっていろどられている。それを象徴するのが奴隷制だ。奴隷制は古代から存在した。戦争と債務が奴隷を生みだした。奴隷は貨幣によって売買される。メソポタミアも古代ギリシアもローマ帝国も奴隷制の上に成りたっていた。

 ふたたび奴隷制が復活するのは近世になってからである。16世紀から18世紀にかけ、1000万人以上のアフリカ人奴隷が大西洋の向こうに輸送されていった。奴隷制は人間が商品となる貨幣経済時代の到来を象徴していた。そこにはかならず暴力が介在していた。貨幣はけっして純粋無垢ではない、と著者はいう。

『[書評]『負債論』』

 

 こっちの説明だと結構しっくりくるんですよね。これだと、人間が集団を形成して、野いちごを採る集落と、魚を獲る集落で商取引を行う。この商取引における異時点間の取引や、商取引のために派遣する商人に対して借用書を発行する、と。

 

 こちらの説明では、商取引市場のシステム全体が組織化し巨大化し複雑化する。そこで「(1)価値の尺度(2)交換(決済)手段、(3)価値貯蔵手段」という3つの機能を担う貨幣のような制度が必要とされる。一方で、単純な物々交換では負債を基礎とした複雑な市場システムが形成されなかったために貨幣が必要とされなかった、ゆえに物々交換から(その発展形として)は市場も貨幣も生まれなかった、要は物々交換では極めて単純な個人間のやり取りくらいしか扱えなかったのではないかということです。

 

 ちなみに、こちらの記事によると、最初に硬貨がつくられたのは、紀元前600年ごろのリュデイア王国(現アナトリア西部)においてだそうです。そうなると、貨幣が発生した紀元前3000年ごろから時期が隔たっていますので、信用貨幣による市場や貨幣システムが十分に発達して以降に硬貨が作られたことになる。このような市場と貨幣システムの発達過程を考えると硬貨が貴金属のような商品貨幣(もしくは商品貨幣的なモノ)ではなく、信用貨幣からの移行の方がスムーズであったことが想像できるのではないかと思います。

 

 ただ、コレも完全に確定的ではないので、現在のところ最もあり得るべき仮説とすべきでしょうが、まあ一応このような理解によって私の疑問の多くはある程度解消されたので、ソウルメイトさんの疑問への回答となっているかは分かりませんが、長々書いてみました。

 

 要点をまとめると・・・

 

・おそらく人類も物々交換はしていた

・しかし、物々交換は複雑で巨大な物々交換市場や物々交換市場経済を形成しなかった

・交易の発達と共に信用貨幣のシステムが生まれ発達し、後に鋳貨が開発された際には、信用貨幣市場が一般的なシステムとして採用されていたために、信用貨幣のシステムが貨幣における一般的なシステムとして採用され、国定信用貨幣のメカニズムへと発展していった

 

といった感じです。

 

 

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