東裕紀氏やホリエモン、ひろゆき氏といった面々の影響で、ニコ生などでは「ベーシックインカム」の議論はある種の流行(といっても随分以前から息永く続いている流行)となっていて、私も結構ニコ生などではベーシックインカムについてアレコレ語っているのですが、今回何冊かの本の中からベーシックインカムについて考える上で参考になるような議論がいくつか紹介した上で、私自身の考えも少し書いてみようと思います。
とりあえず、最初に「ベーシックインカムとはなんぞや?」という方のために説明しておくと、簡単にいうなら、国民一人一人が仮に労働を行わなくても生活できるように最低限の所得を政府が保証するという制度です(日本で、よくなされる議論では月に8万円程度全国民に支給するということが仮定されています、まあ都内で生活する場合8万で生活できるかというと厳しいですが・・・)。
ベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するという構想。基礎所得保障、基本所得保障、最低生活保障、国民配当とも、また頭文字をとってBIともいう。(中略)
国民の最低限度の生活を保障するため、国民一人一人に現金を給付するという政策構想。生存権保証のための現金給付政策は、生活保護や失業保険の一部扶助、医療扶助、子育て養育給付などのかたちですでに多くの国で実施されているが、ベーシックインカムでは、これら個別対策的な保証ではなく包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償することを目的とする。
包括的な現物給付の場合は配給制度であり、国民全員に無償で現金を給付するイメージから共産主義・社会主義的と批判されることがあるが、ベーシックインカムは自由主義・資本主義経済で行うことを前提にしている。
新自由主義論者からの積極的意図には、ベーシック・インカムを導入するかわりに、現行制度における行政担当者による恣意的運用に負託する要素が大きい生活保護・最低賃金・社会保障制度などに含まれる不公正や逆差別といった問題を解消し、問題の多い個別対処的福祉政策や労働法制を「廃止」しようという考えが含まれる。
(Wikipedia『ベーシックインカム』より)
アレコレと議論が成されていることや、あまりにも既存の社会システムから乖離した制度であるため、簡潔に議論の要点を整理することが難しいのですが、このベーシックインカムは必ずしも福祉国家的な構想や、社会主義的な構想とイコールではないという点は重要です。
かつては、維新の会などの極端な新自由主義的政策を好む集団からも提言がなされていたのですが、新自由主義的な政策を好む人々がベーシックインカムを好む理由としては、社会保障の効率化や行政による恣意的な分配や中央集権的な決定権限を排し、機械的に一律な給付と社会福祉の(ある意味で究極的な)効率化を実現することが狙いです。具体的には、現在存在している国民保険制度や生活保護などを一切廃止し、政府による社会保障は毎月決まった額が支給されるベーシックインカムに一元化しようという考え方です。
私は、基本的にはベーシックインカムには反対しているのですが、その理由の一つは、結局ベーシックインカムは一般にイメージされるような福祉国家的で人々に安心で快適な生活を保障するような大らかな制度ではなく、むしろ極端な「アメとムチ」のようなもので、「とりあえず、毎月に最低限の生活費は保証するからあとは完全に自由競争の弱肉強食に世界にするから!!」という究極のサバイバル&放置プレイなワケです(映画『バトルロワイヤル』では、中学生のクラスメイト全員に武器を一つだけ支給し無人島で残り一人になるまで殺し合いをさせましたが、おおよそあんなイメージですw)。
一応、拡張財政的な考えで、それまでの基本的な社会保障や再分配のシステムを維持した上で、追加的に毎月何万円かの現金を支給するというアイディアをヤン・ウェンリーさんが書いているのですが・・・
この場合でも、「いやでも、直接現金を給付するより、生活に必要な衣食住をサポートするような制度設計をした方がええんちゃう?」という、やはりより現実的な提案が同時になされており、私もこの点に同意します。
ここまで、ベーシックインカムの基本的な論点についていくつか触れてきましたが、実はここからが今回の本題です。これまでは、主にベーシックインカムがどのような発想や思想的背景をベースにして提案されてきたのか?という問題について解説してきたのですが、津田塾大学教授で哲学者の萱野稔人氏は、また違った論点からベーシックインカムの批判を行っています。
ベーシックインカムには、先に述べたような行政のスリム化や社会保障の効率化などの観点からなされていると同時に、ユートピア思想的な一部の左派の論者からは労働からの解放という観点からなされているワケですが、萱野氏はこの労働からの解放は、同時に「個人の労働を通した社会とのつながり」を切断し、社会からの排除をもたらすと指摘しています。
成熟社会におけるベーシック・インカムの意義は「労働からの解放」にある。これは一言でいうなら、働きたくなければ働かなくてすむ、ということだ。
ベーシック・インカムのもとでは、生きていくうえで必要最低限の現金が支給されるので、働きたくない人は別に働かなくても生きていける。生きていくうえで労働は必ずしも「すべきこと」ではなくなるのである。
こうしたろ「労働からの解放」は、成熟社会において人びとが賃労働以外の活動をおこなう余地を広げてくれるだろう。
そもそも成熟社会というのは生産過剰社会のことだ。社会の需要を満たすために、みんながフルタイムで働く必要はない。だったら働きたい人だけが働いて、それ以外の人は賃労働以外の活動にもっと時間を当てたほうがいいだろう。それに成熟社会では、市場経済が飽和化し、カネで買えるようなものはすでに人びとの手にわたっているので、自らの欲求を満たすために必死になってカネを稼ぐ必要もそれほどない。むしろカネでは買えないようなもの(たとえば人間関係や余暇、自然、ボランティア活動など)にこそ人びとの欲求や価値はむかうのであり、そうした人びとが時間や労力を割けるようにすべきだろう。
こうしてベーシック・インカムは成熟社会において人びとを賃労働から解放し、市場のそとで彼らが幸福を追求する可能性を増大させる。
事実、ベーシック・インカムの推進者たちは、人びとが仕事に振り回されることなく自分の好きな活動をおこなえることこそがベーシック・インカムの意義だと強調する。もちろん仕事をしたい人は仕事をすればいい。カネをもっと稼ぎたい人、仕事で成功したい人はどんどん仕事に邁進すればいいだろう。しかし世の中そんな人ばかりではない。仕事よりも家族や地域の人間関係を充実させたい人、趣味に没頭したい人、自然の中でのんびり暮らしたい人、仕事が苦痛でたまらない人、そういった人もたくさんいる。ベーシック・インカムはまさにそうした人たちが賃労働以外のところで多様な価値や幸福を追求することを可能にするのだ、と。
(『成長なき時代の「国家」を構想する ―経済政策のオルタナティヴ・ヴィジョン』「なぜ私はベーシック・インカムに反対なのか」より)
氏は、このようにベーシック・インカム推進論者の主張をまとめた上で、しかし、同時にこのような「労働からの解放」は人々の社会からの排除をも生み出すと指摘しています。
ベーシック・インカム推進論者は、「労働からの解放」によって、それまでの労働至上主義、職業的アイデンティティ至上主義的な価値観から人々が解放されることとなり、結果として人々には新たな形態の社会参加やアイデンティティ形成の可能性が開かれると主張するのですが、氏はそれほどことは単純にはいかないということを指摘し、現代社会における労働を通した社会参加の特別な意義を強調します。
ベーシック・インカムのアイデアが見落としているもう一つの点は、労働をつうじた社会参加を他の方法によってどこまで代替できるのかという問題にかかわっている。
ベーシック・インカムは人びとを労働から解放し、彼らが賃労働以外の方法で社会参加する可能性をひろげようとする。たしかに、これまでほとんど賃労働に限定されていた社会参加の回路を、他の様々な方法によって多様化していくことは意義のあることだろう。ずっと仕事一筋だった人間が定年退職などの理由で仕事をやめたとたんに社会との接点をうしない、生の活力を喪失してしまうような事態はやはり残念だ。とりわけ成熟社会では、市場経済によって満たすことのできる人びとの欲求は飽和化してしまうので、労働や消費といった、市場での活動をつうじた社会参加の優位性を相対化し、他の社会参加の可能性をひろげていくような方向性がどうしても必要になってくる。(中略)
しかし、「仕事をつうじた社会参加」を別のものにそのまま置き換えることは不可能だ。仕事には、たんにカネを稼ぐという側面だけでなく、それらをつうじて自尊心や自立心を満たしたり、みずからの社会的役割や存在意義を認識したりするという重要な側面がある。おなじ社会参加でも、まさにカネを稼ぐということによってもたらされるアイデンティティ上の効果の点で、仕事には特別の意味があるのだ。
このような現代の産業社会、資本主義社会における労働の持つ特別の意義や価値は、これ以外の書物においても特別に強調されている事項であります。次回の後編では、他のいくつかの書物の中から、同様に現代社会における労働の持つ特別な意義に関する記述を紹介した上で、ベーシック・インカム推進論者から想定し得る「しかし、そのような賃労働の持つ特別な意義は、現代の資本主義における構造や価値観から導かれるに過ぎない」という反論に対する萱野氏の反論を紹介した上で、その他の考察を深めていきたいと思います。
↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★
↓新しい動画投稿しました!!