最近、よく取り上げているヤン・ウェンリーさんのブログで例の安倍首相お抱えのジャーナリスト山口敬之氏のレイプ事件について解説してあったので紹介します。


 

今回の事件で、例の如く安倍信者などは「政治問題化するなー!!」などと言っているそうですがとんでもありません、言うまでもなく政治問題です。当然ながら司法が歪められたというのがその根拠なのですが、それ以上に、レイプ事件の被害者女性をこぞって安倍信者が誹謗中傷していることこそがこの問題が政治問題であることを如実に示しているように思います・・・( ̄▽ ̄;)

 

ついでにTwitter上ではこんな正論も・・・

 

逮捕状が出た後に逮捕がされず捜査が潰されたという今回の事件に関してリテラの記事ではこのように書かれています。

 

事実、今回も様々な報道で弁護士や警察OBなど多くの専門家が「逮捕状が出たのに、逮捕されない、捜査がつぶれるというのは異例、聞いたことがない」と、口をそろえている。

 

『山口敬之のレイプ告発会見でテレビが見せた弱腰、安倍応援団は「逮捕ツブしたのはTBS」とデマで官邸擁護』より)

 

さらに、今回の事件が政治問題であることを完全に決定づけた根拠の一つがこちらのメール誤爆事件・・・

 

「昏睡レイプ事件」の山口敬之、週刊新潮からの質問状を北村滋内閣情報官に相談か→週刊新潮にメール誤転送で発覚

 

 

まずこの文面から分かるのは、当然ながら「北村さま」は山口敬之が「昏睡レイプ事件」に関して知恵を借り、判断を仰ぐ相手であるということ。

次に分かるのは「■■の件です。取り急ぎ転送します」という部分から、既に山口敬之と「北村さま」が本件について逐次の情報共有を行っているということ。さらに情報の付け足しがないことから、「北村さま」が週刊新潮のスクープ以上に内情に通じているということです。(中略)

 

ここで名前が上がってくるのが北村滋内閣情報官。内閣情報調査室のトップを5年も務め、2017年の首相動静に54回も登場する、名実ともに安倍首相の懐刀。特定秘密保護法や蓮舫問題、都知事選での鳥越俊太郎候補の醜聞問題などにも深く関わっているとされる人物です。

 

ジャーナリストの名の下に安倍政権を擁護するコメントを出し続けてきた山口敬之が、実際に安倍首相の側近である内閣情報官と「ズブズブの関係」であれば、もはやこの人物をジャーナリストと呼ぶことはできません。

当然ながら山口敬之も北村滋内閣情報官も週刊新潮の追求にはしらを切っていますが、それで済むような問題ではありません。

実際に官邸と繋がりの深い警視庁刑事部長による不可解な逮捕の直前での山口敬之の握り潰しが行われており、ここで北村滋内閣情報官と山口敬之の繋がりが認められれば、首相官邸が子飼いの「ジャーナリスト」の準強姦という重大犯罪の捜査を妨害したということになります。

権力者に近い人物であれば数億円単位の便宜を図られるだけでなく、刑事犯であってももみ消せるというのであれば、もはやその国は法治国家と呼べる存在ではなくなってしまいます。

 

日本の憲政史上初めて、行政府と立法府の長を兼ねる総理大臣である安倍首相ですが、どうやら司法にも強力な影響力を保持していることが発覚したようです。

 

今回の問題は、メディアがほとんど取り上げていないことも問題となっているようですが、近年では、「舛添要一問題」「保育所問題」「森友学園問題」「加計学園問題」と「週刊誌⇒ネット⇒国会⇒地上波メディア」といった順で様々な問題が取り上げられて来ることも多いので、今回の問題もネットメディアで騒ぎが続いて、国会でも取り上げられるようになればそのうち地上波でも無視できなくなってくるでしょう。

 

ところで、今回も例の如く小説『1984』の内容に言及したいのですが、『1984』ではビッグ・ブラザーと党に支配された独裁の全体主義体制がひかれているのですが、ビッグ・ブラザーと党が支配しているのは主に6つの分野です。始めの3つは言うまでもなく「司法・立法・行政」の3つです。ビッグ・ブラザーと党が支配するオセアニア地域では法や法律は一つも存在せず、司法は全て権力者の恣意的な権力の行使によって決定します。次に、4つ目はメディアですが、民間組織のTVや新聞雑誌などのメディアは存在せず、個人的に過去の記録を残すために日記を書くことは禁止され、あらゆる情報は党が発行する雑誌と双方向の映像音声受信機であるテレスクリーンに一元化されています。

 

そして、最後の5つ目と6つ目は生産手段と分配です。物資の生産は党の潤沢省が管理し、物資の供給や分配も党の配給する物資や様々な物資と交換可能なクーポンによって管理されます。

 

まあ、現在の状況から行き着く先は、『1984』の世界と大して変わらないとは思うのですが、いくつか違っている点は、すでに物資の生産は十分な水準に達しており慢性的な生産不足に陥る可能性は極めて低い点、経済活動は自由化されている点、様々な政治団体(経団連等が典型)が一定の政治的影響力を行使している点。インターネットなどで個人的な言論や表現の自由は許容されている点。そして、最後に決定的なのが、アメリカという宗主国様に支配された属国全体主義という特殊な形態の全体主義であるという点です。

 

私は、今では西田昌司氏は大嫌いではあるのですが、氏がかつてチャンネル桜で主張していた「日本=サファリパーク論」というのはなかなか秀逸な論で、日本人というのは、野生の動物のように自由でもなく、動物園の動物のように完全に自由を制限されているワケでもない、と。では、どういう状態なのかというと、サファリパークの動物たちのように一定区間の囲われて管理された範囲の中では自由であり、全ての餌を管理者から与えられながら、「自分たちは自由だ!!」と思い込んでいるという状況だというのです。

 

とりあえず、このような社会の行き着く先を考えると、一部の特権階級のみが一定の快適性を持って暮らし、中間層がそれなりに惨めではあるけど、同時にそれなりに快適で、それなりに自由で、それなりに未来への希望を失って誰もが薄っすらな漠然とした絶望を抱えながら生きていくのではないか?と思っています。

 

 

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