久しぶりに踊ってみたの動画を投稿しました!!

 

 

 

 

足太ぺんたちゃんという女の子の踊り手さんの振り付けなんですが、一見簡単そうに見える振り付けだったのが実際に踊ってみると予想より遥かに難しく、動画をアップロードするまでにかなり時間がかかってしまいました・・・(;'∀')

 

もし、良かったらニコニコのマイリス登録してくれたり、YouTubeのコミュニティー参加してもらったりすると凄く嬉しいです✼✿(ღ✪v✪)。゚:*:✼

 

で、まあ今回はたまーに書くことのあるダンスネタです・・・まあ、たまには政治とか哲学以外にも色々と語らないとねw

 

最近は、動画でダンスの振り付け解説動画をアップしたり、社会人のダンスサークルの練習会に参加してたまに教えたりしているのですが、少し思ってきているのが、振り付けの動きを教えるというのはあくまで表面上の身体の動かし方であって体内に感じている内的感覚やグルーヴ感といったものはなかなか言葉では伝えづらいんだよなーということです。

 

いわゆる科学哲学者のマイケル ポランニーなどが言うところの暗黙知というヤツなのでしょうが、振り付けにおける実際の手足の動かし方が形式知だとするなら、特定の振り付けにおいて対内的に感じている身体感覚といったものは言語化したり実際にお手本を見せて視覚化させるといった方法で明示することが難しい暗黙知の領域に属していしまうワケです。

 

で、まあ最近までダンスの振り付けを解説していただけなのに何故いきなりこんなことを言い出したのかというと、例えば踊ってみたのような特定の決まった振り付けで身体を動かす場合、仮に体型などが同じであるなら、表面上はおおよそ似た動きになってしまい(何しろ同じ振り付けですから)中々他者と差をつけにくくなってしまう。

 

では、手足の動かし方などの外形的な動きが同じである場合に、「一体どのようにして上手い下手の差が出るのか?」となった場合に、おそらく「どれだけ体内に音やリズムのグルーヴ感を感じながらそれを表現していけるか?」や「どれだけ内的なフィーリングを作り出していけるか?」という違いが重要になるのだ考えるからです。

 

こんなことを考えていた時に、以前ダンススクールの先生から、「ココのタイミングでカッと気合を入れるんだ!!」とか「ココのリズムのところで8ビートのカウントで動くのではなく、音楽のリズムをそのまま感じ取るんだ!!」みたいなことを言われたことを思い出しました。

 

そういう話を聞いていた当時は「???」と思ったり、あるいは「うーん、こんな感じだろうか?」と分かるような分からないようななんとも言えない気分になっていたのですが、今思うと、なるほど具体的な振り付けの身体の動かし方と同等か、あるいはそれ以上にそのような微妙なフィーリングこそが重要なのかもしれないと感じたりもします。

 

また、同時に思うのは、このようなフィーリングや内的感覚は主観的な経験なので、果たして自分の感じているグルーヴ感と先生などが感じているグルーヴ感は同じかは分からない。もしかするなら、私が10のグルーヴ感を感じて「こんな感じで良いだろう」と思っていたとしても、先生は100のグルーヴ感を感じているかもしれない。また私がAというタイプのグルーヴを感じているが、先生はBというタイプのグルーヴを感じ、かつその感覚こそが重要なのだと思っているかもしれない。

 

なんか、こう言うと、哲学などの分野における主観的感覚の理解や共有といった認識論の問題に入ってくるので、中々面白いと思ってみたりw

 

ところで、先日ニコ生をやっている時に、「ダンスの分野では、ダンスを哲学などの思想的見地から解説していくような評論は存在しないの?」みたいなコメントがあったのですが、先のようなことを突き詰めていくと中々ダンスを通じて深い哲学的な問いに通じていくこともできるかもしれません(笑)

 

もしかしたら、今後も動画紹介と共にちょいちょいこういったダンスネタを挟んでいくかもしれませんw

 

 

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