現在、政治界隈では森友学園と愛国虐待幼稚園の話題で持ちきりですが、あえて全然関係ない問題で・・・あれほど盤石だと思われていた安倍政権が「ついに退陣するかもしれない!!」という瀬戸際まで追い詰められている状況で、「今政権批判を行わずにいつ行うのだ?!」というレベルで盛り上がっているのは分かるのですが、何故かイマイチ政治的な時事ネタについて解説する気にならない状況です・・・( ̄▽ ̄;)
まあ、とは言っても、そのうち細かくアレコレ解説しようという気にもなるかもしれないので、今回は最近考えている心に関するちょっとした議論に付き合ってもらえればと思います。
今回は前回記事(『『沈黙』レビュー②~信仰か科学か?~(※コメント返し中心)』)の後半部分の議論の続きです。
前回の議論では、「善の心」を例にとって、「果たして、善の心は存在するのか?」という問題について解説しました。つまり、例えば、何か善行を成した人物、財布を交番に届けるでも、困っている人にお金をあげるでもなんでもいいのですが、そのような行為を行って人物に関して、その人が「善の心」を持っていると確認することは出来ないということです。言うまでもなく、心というのは体の中からポンと取り出して、「はい、これがこの人の心です」と物体として指し示すことは出来ません。では、心というものは物体ではなくプロセスであるのか?
先の善を成した人物の例を考えると、実際に確認できるのは、「どこかで財布を拾った」とか「何かに困っていてお金が必要な人物がいる」という状況と、「拾った財布を交番に届けた」とか「困っているその人にお金をあげた」とかいう行為です。つまり、「具体的な状況」「善の心」「善の行為」という3つの要素を考えた時に、実際にその存在が確認できるのは「具体的な状況」と「善の行為」の二つだけであって、「善の心」については、推測するしかない、つまり「このような状況で、こういった行為を行ったのだから、この人には善の心があるのだ」という推測です。
仮に、私が現在証明しようとしている事象を「心の非実在性」と呼ぶとするなら、この事象における一つの重要な発想の転換は、「具体的な状況⇒善の心⇒善の行為」という通常考えられるプロセスの逆転です。通常、人は「善の心」が「善の行動」を導くと考えます。これが「心の実在論」つまり「心」とか「善の心」といったものが具体的な行動とは独立して、あるいは具体的な行動に先立って存在しているという考えです。しかし、私の考えているプロセスはこの逆で「具体的な状況⇒善の行動⇒善の心の確認」というプロセスです。つまり、「具体的な状況(財布を拾った)」と「善の行動(財布を交番に届けた)」という事実から、「だからこの人は善の心を持っているのだ」というカタチで推測される。つまり、心とは、何か具体的な行為や振る舞いから独立して存在する何かではなく、具体的な行為、あるいは具体的な行為の集積から推測される架空の存在であるということです。
では、次に例えば、「恋心」というものについて考えてみます。少女漫画などでは(あるいは少年漫画でもそうですが)、登場人物がある時、突然「自分は恋に落ちているのだ」と気付くことがあります。
これは、まさに「心の状態」というものが、その他の様々な要素から独立してその状態を確認できないことの証左の一つであって、例えば、特定の異性の近くにいたり、あるいは話したりしてコミュニケーションをとっている際に、心拍数が増えて、手に汗がにじんできたりしたとします。このような記述だけ見れば「コレって恋かな?」と思うかもしれませんが、これだけで「これは恋だ」と確定することは出来ません。何故なら、例えば、その異性と一緒にマラソン大会に出場しているのかもしれませんし、何故か、その異性と一緒にいる時に強盗殺人犯に拉致されて恐怖から心拍数が増加し、汗が出ているだけかもしれないからです(もちろん、これは極端な例ですがw)。
ですので「恋心」とは、ある特定の身体状態とか精神状態(脳神経の状態)に加えて、周囲の状況や相手の特徴(そんなにイケメンでもないと思ったけど、結構背もスラッと高くて顔立ちも整ってる、あるいは実家が金持ちとかw)などから総合的に判断して、「これは恋だ」と結論するワケです。先の、具体的な状況と行為から総合的に、「善の心」を推測、もしくは判断するのと同様ですね。
もちろん、心の状態が様々な状況や要因から総合的に判断されるからといって、周囲の状況や脳や身体の働きから独立した心の存在が否定されるワケではありませんし、逆に「このような様々な要因から総合的に導き出されたモノこそが心だ」と言われれば、まあ心は存在すると言っても良いと思います(こうなると、「心が存在する」とはそもそもどういった意味なのか?という別の問いへと逆戻りしなくてはならないワケですが・・・)。
まあ、なんとなくマニアックな言い方をするなら(もっともここまでの議論の在り方そのものが十分にマニアックですが)、心という独立した変数を想定する必要はあまりないのではないか?ということです。
長々と議論を続けて、「だから何なのだ?!」と言われても、特にだから何ということもないのですが、まあ、最近色々な本を読んだり、色々と考えていたことを書いてみました。
次回以降で、『沈黙』のレビューの続きや、森友学園、教育勅語復活の問題等についても書いていきたいと思います。
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