流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップテン入りから考える大衆社会論
 

賛否両論?流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」のトップ10入り

 

12月1日に「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表となり、「日本死ね」がトップテンに選ばれました。しかし、現在この「日本死ね」というワードが流行語大賞にノミネートされたことに関して賛否両論の声が上がっています。
もともと、この「日本死ね」という言葉は保育園の抽選に落ちた匿名ブロガーが怒りを綴ったエントリー記事に由来するもので、マスメディアや国会等で取り上げられる等大きな反響を呼びました。
この受賞結果に対し、タレントのつるの剛士は自身のTwitter上で「なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました」など、過激な表現に対して疑問の声も上がっています。

 

「日本死ね」は甘やかされた子供の叫び?

 

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流行語大賞「保育園落ちた日本死ね」トップテン入りから考える大衆社会論

 

「保育園落ちた日本死ね」が流行語大賞にノミネートされたのが先月の1日ということで随分期間が空いてしまったのですが、この言葉が流行語大賞に選ばれた時に思ったこと少しまとめてみました。

 

この記事で参考にしたのがスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットなのですが、今回の記事を書くにあたってアレコレ調べてみましたが、結構凄いことを言っているなぁと感じましたね。

 

以下、太字部分は全て『大衆の反逆』からの引用です。

 

『近年(=1930年頃のこと)の政治的変革は、大衆の政治権力化以外の何ものでもないと考えている。かつてのデモクラシーは、かなりの強度の自由主義と法に対する情熱とによって緩和されたものであった。これらの原則を遵奉することにより、個人は自分のうちに厳しい規律を維持することを自ら義務付けていた。自由主義の原則と法の規範との庇護によって少数者は活動し生きることができたのである。そこでは、デモクラシーと法および合法的共存は同義語であった』

 

これは、どういうことかというと、簡単に言えば健全な民主主義を実現するためには、有権者一人一人が、民主主義社会にふさわしい「市民」たらんとする決意と自覚が必要とされるということです。むろん、如何なる社会もその構成員が堕落した状況にあっては社会そのものの腐敗は逃れられないのではありますが、国民一人一人が有権者として直接的に政治参加する民主主義の制度の下ではより直接的に国民一人一人の堕落が社会の腐敗を招きます。

 

 『われわれの時代を支配しているのは、大衆人であり、したがってわれわれの時代において決定を下すのは大衆人である。・・・(かつての)普通選挙においては、大衆は決定したのではない。彼らの役割は、いずれかの少数者の決定に賛同することにあったのである。いくつかの少数者の集団が自分たちの「綱領」を提示した。

 「綱領」――なんとすばらしい言葉であろうか。これらの綱領は、確かに、集団的な生に関する綱領であった。そして大衆はこれらの綱領の中から、一つの決断の計画を受けいれるよう呼びかけられたのである。

 ところが、今日の事情はこれとは非常に違っている。・・・社会的権力は大衆の一代表者の手中にある。しかも大衆はあまりにも強力であり、いかなる反対の可能性を抹殺してしまった。

 今や大衆は、完全に無比無敵、絶対的な形で社会的権力を所有している。歴史上にこれほど強力な政治の前例を発見するのは困難であろう。

 ところが、それにもかかわらず、社会的権力、すなわち政治はその日暮らしをしているのである。明快な未来像を示さず、未来を明確に予告せず、その後の発展を想像しうるようなものの始まりとしての姿をとっていない。要するに、生の設計も計画もなしに生きているのである。

 自分がどこへ行くのか知っていない。知らないはずである。

 厳密にいって進みはしないからであり、あらかじめ定められた道も、設定された軌道ももっていないからである。

 かかる権力が自己を正当化しようとする時には、未来には全く言及しないばかりか、現在に閉じこもり、あきれるほどの率直さで「余は環境によって強制された変則的な政治形態である」というのである。

 つまり、現在の緊急事態によって余儀なくされた政治形態であって、未来への計算が要求される形態ではないというわけである。社会的権力の活動が、その時々の軋轢をかわすことに限られてくる理由はここにあるのである。

 軋轢を解決するのではなく、一時的にそれを避けようとし、そのためにはいかなる方法をも用い、それによってかえって多くの混乱をきたるべき将来に蓄積する結果になることも辞さないのである。

 大衆が社会的権力を直接行使した場合は、常に右の(=この)ような状態であった。それは全能でありながらその日暮しなのである。大衆人とは、生の計画をもたない(その日暮しの)人間であり、波のまにまに漂う人間である。したがって、彼の可能性と彼の権力がいかに巨大であっても、何も建設することはできないのである。』

 

こちらも非常に重要な指摘だと思うのですが、基本的に民主主義の制度というのはそれぞれの政治団体、利権団体における利益の調整と分配なんですね。つまり、ある団体がこれだけの権利をくれと要求し、別の団体がそれと矛盾する特定の利権や権利を要求する・・・有権者からの支持と投票によって選択される現在の政治家の役割は、基本的には複数の様々な政治における利害関係者の権利を如何に分配していくか?という問題に帰結します。

 

もちろん、そのような構造自体を非難することは出来ないのですが、ここで生じてくる一つの問題は、政治というものが「現在の各団体や組織の利害関係」という非常に静的な状況における問題への対応に終始することとなり、より大きな政治的ビジョンの中で、ダイナミックな認識や将来目標を指し示すという政治本来の目的が喪失されるということです。

 

しかし、それでも政党や綱領といったものが機能しており、大衆が政治に直接参加して決定するのではなく、少数者が作成した党や、その綱領に賛同するといったカタチの間接民主主義、代議制民主主義の役割がしっかりと生かされていたのであれば、党やその代表がビジョンを指し示すことが可能だったかもしれませんが、現在においては、そのような大きなビジョンを示すこと自体がそもそも政党や政治家に期待されていないのかもしれません。

 

一方で、では様々な団体や組織の利権の分配がしっかりと機能しているかといえばそれすらも疑問で、様々な中間団体が破壊され、政治による利害の調整より市場による選択と淘汰の論理が優先される現在の状況にあっては、どうしても企業家、資本家のみが特別に強力な政治的影響力を保有し、その他の大衆はどこまでも無力であり、政治的影響力は実質的に皆無であるという状況が発生します。

 

つまり、現在は政治がなんの生産的な目標も持たず、有効な機能を失っていく中で、大衆というのは生の計画をもたない、その日暮しの人間であり、同時に集団で団結して政治的影響力を行使しようという意志も能力も持たないという、まさにどうしようもない存在になり下がってしまっているワケです。その中で、個々人で快適性と政治的権利のみを主張するからやたらと恨みがましく、政治にたらたら文句を述べるだけで何の生産性も影響力も持たない空虚なフレーズや言説だけが独り歩きする。

 

もしかするなら「日本死ね」もこの空虚な政治的言論的空間のなかで飛び出てきた象徴的なワードの一つであるのかもしれません 。

 

 

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