前回記事(『【ネトウヨ悲報】元航空幕僚長田母神俊雄氏逮捕・・・ 後編』)の内容が思ったより反応があったので、色々と追加で解説します。

 特に反応があったのが阿吽さんのこちらのコメントです。


無題

たぶん、その考え、発想じゃ・・・、

何をしても幸せにはならないと思います。

情けは人の為ならず

【読み】 なさけはひとのためならず
【意味】 情けは人の為ならずとは、人に情けをかけるのは、その人のためになるばかりでなく、やがてはめぐりめぐって自分に返ってくる。人には親切にせよという教え。
http://kotowaza-allguide.com/na/nasakewahitono.html
・・・・・・です。

たぶん、きっと・・、そんなふうに考えたり、行動とかをしないと・・・、

何をしても幸せにはならないと思います。

みんなで幸せになる方法を考えなければ、いけないのではないかと思います。

そういう意味では・・、さやかちゃん式も、杏子ちゃん式も・・「うーん・・」、という感じです。

自分も、他人も、幸せにならなければ・・・、そりゃ、幸せじゃないです。

みんなが幸せの方が、楽しいです。

他人と自分、両方が幸せにならなければ・・、それは、本当の意味では、幸せにはならないんじゃないかと・・、思います。

例えば・・(極端な)例として一つ上げますと・・、


カツトシさんが一生懸命正しい財政政策を訴える。

努力のかいあって、景気が良くなる。

カツトシさんの実家の家業が繁盛する。

カツトシさんの給料がupする。


カツトシさんも、日本国民も、こうすれば、ニコニコになれます。

上記のことは、即興で考えた、ほんの些細な(極端な)一例ですが・・・、

こんなふうに、みんな(自分・他人)が幸せになれる方法を、探せば良いんじゃないかなあ、と、思います。

自分の幸せだけ考えていても、他人の幸せだけ考えていても・・・、そりゃあ・・駄目なんじゃないかなあ・・、と、思います。


阿吽 2016-04-15 19:57:13


 もちろん、あえて「(極端な)一例」として紹介しているので、あまりこのコメントを額面通りに受け取っても仕方ないという面もあるのですが、一応反論を・・・。

 まず、現在の状況というのは基本的には政治活動を行うと損をします。理由は簡単で、政治活動を行うコスト(時間、労力、お金等々)が、そこから得られるリターンよりも遥かに大きいからです(政治家や官僚や、莫大な政治献金を行える企業家や、民間議員として直接的に政治に影響力を行使できる経営者、さらに社会的な影響力の大きい芸能人や知識人等は例外)。

 もちろん、

カツトシさんが一生懸命正しい財政政策を訴える。

努力のかいあって、景気が良くなる。

カツトシさんの実家の家業が繁盛する。

カツトシさんの給料がupする。


という状況が発生することは理想ですが、現実には特別な有名人でもない一個人の及ぼせる政治的影響などたかが知れているので、なかなかこういう状況は発生しにくい。

 ですので、よく言われるような「政治活動なんてしても時間の無駄」とかいう冷笑主義は一応「個人の利益」という合理性のみで考えると全く正しいワケです。

 ここでもまた合成の誤謬のような状況が発生します(社会的ジレンマ)。具体的には、多くの人がより積極的に政治的問題や、地域社会の問題にコミットしてより多くの人が公共的な問題に関わったり議論することが社会全体としては望ましいが、一個人の損得の問題としては政治的問題に積極的にコミットすることはリターンよりコストの方が大きいので多くの人から政治運動、社会運動は敬遠されるということです(また、参加者のボリュームが一定数を超えると議論の内容が陳腐化するという問題もありますがそれは脇に置きます)。

 そうなると、多くの人に社会的な関心を持ってもらうためには、単純な損得勘定を超えたレベルで何らかのモチベーションを持ってもらう必要がある。まず、一つは自発的関心、つまり「自分の国家や社会や地域コミュニティーに問題に関して、社会的動物である人間が関心を持つのは当たり前だろう」という考えです。ただし、人間は特定の状況(そう、まさに現在のような状況)においてはどんどん興味や関心の幅が狭まっていき、天下国家から自分の所属する企業の利益、企業利益から自分個人の昇給や出世・・・とどんどん個人主義化していき周囲の問題への関心を喪失する傾向があります。

 2つめが、虚構の世界を作り上げ社会正義やヒロイズムを燃え立たせる。いわゆるネトウヨビジネスなんてのは典型ですが、まずは愛国者や売国奴で国家を二分し、「自分たちこそが愛国者である!!」と宣言する。すると多くの自分自身の在り方に懐疑したり絶望した人間はその「我こそは愛国者なり」と宣言する人間と自分を同一化させようとします。人間には常に世界を善と悪の二つに分けて自分を善の側に置きたいという欲求を持っていますから、以外にもこの単純な戦略にコロッと騙される人間は多い。結果として、そうした多くの人々はつかの間の愛国活動によって平々凡々たる自分の人生を忘れ、何か立派な社会正義を抱く活動家であるかのような幻想を持つことが出来るわけです。

 最後に3つめがシールズやしばき隊、あるいは最近出てきている高校生の政治団体などが典型例ですが、「自分たちの活動はクールだ!!」と見せたり、あるいはツイッターやLINEなどのSNSを活用してメンバーに一体感を持たせるという方法。これによって、活動の参加者に自己満足感やマズローの言うところの所属欲求などを満たしてやることができる。これも、まあ一定の成果があったように思います。

 ですが、残念なことに私のような人間はこの2つ目や3つ目の方法から満足を得ることが出来ない人間なんですね。ネット右翼や自称愛国者様のように独善的な正義に浸ることも出来なければ、シールズのようなファッション感覚の自己実現型のオシャンティーデモ活動に精を出すことも出来ない。何しろ、私自身が徹底的にそれの構造を言語化し揶揄して馬鹿にしてきたワケですから・・・(;'∀')

 そうなるとあとはもう自発的関心や知的好奇心、あるいは上手くマネタイズ化してそこから金銭的な報酬を得るくらいしか、モチベーションはないんです。

 でもって、思ったほど高尚でも立派でもないこの社会で、どうやら情報発信で儲けるには芸能ゴシップが一番手っ取り早い、と。

 そうなると、芸能ゴシップを取り扱うことをそれ自体を否定したり批判したりすることは、心情的には理解できるものの、よくよく考えてみれば特定の週刊誌に「芸能ゴシップを取り扱うのは止めて、真面目な社会問題や政治問題だけを扱うべきだ!!」と言っているようなもので、そもそもその批判に正当性があるのかすらよく分からない。

 もちろん、個別の情報発信において「コレは問題だ!!」と指摘することは可能でしょうが、そもそも膨大な量の文章やら動画やらの情報を発信する中で、そりゃあ問題のある表現もいくつかは出てくる。「それは単なる開き直りだよ」と言われればそうかもしれないが、それでも再生数を稼ぐためには一定程度踏み込んだ表現も必要になるワケで、全てを完璧に問題ない情報として発信することは現実的に不可能なのも事実なんです。

 と、まあ長々書いてみましたが、この「さやかちゃん問題」に関しては他にも色々と言及したいことがあるので今後も続けて書いていきたいと思います。


↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★




↓新動画『民進党公式ツイッターアカウントで不謹慎発言&一般人を煽って大炎上!!』٩( 'ω' )و