以前書いた記事(『反日なのに愛国を叫ぶ人たち』)で、佐藤健志さんに関して
>佐藤健志さんの『震災ゴジラ』を読んでも思ったのですが、佐藤健志さんは相当にフロイトの基本的な考え方を踏襲した上で、なおかつそれを様々な分野にある意味安易に適用させることで理論を飛躍しすぎているのではないかと思うのです。
と、批判しました。
フロイトに関しては、色々な見方があるものの、現在の心理学の世界では大方の見方として、「フロイトはインチキだった」と考えられています。
とはいえ、色々と功罪はあるので、今回は私がフロイトについて考えていることに関してあれこれ解説をしてみたいと思います。
まず、フロイトを説明するときに、最も一般的に説明されるのが、無意識の領域を発見した人物というものです。しかし、これは実際にはそうではありません(例えば、ユングはフリードリヒ・シェリングが西洋における無意識の発見者であるとしています Wikipedia『無意識』)。
この点から、フロイトは無意識の発見者というよりも、無意識の存在を世に広く知らしめると同時に、フロイト流の独特の無意識の考え方を提唱した人物であると言えるでしょう。
そのフロイトが、人々の人格形成における非常に重要な要素として考えたのが、幼少期のトラウマと抑圧された性欲という二つの要因です。特に、幼少期のトラウマがその人のどの後の運命を決定づけるという理論は、結構広く信じられていました。今では、それほど強力に信じられているワケでもありませんが、やはり何か青少年の凶悪犯罪などが発生するとその犯人の親や生まれ育った環境について強い関心が向けられることから、未だにそのような考え方の名残はある程度存在していると考えられます。
『フロイト先生のウソ』という本では、このような一昔前の俗説に関して、定量的なデータによる一切の根拠は存在しないとして、次のように述べます。
近年集められた膨大なデータや統計を見れば、これはもう「誤り」のほうだったとしか言いようのない状況である。データを集めれば集めるほど計算モデルに改良を加えれば加えるほど、圧倒的であるはずの教育の影響力は低下していく。(中略)
こうした革命的研究者たちは、自らのテーゼが世間一般の常識に反するばかりか、教育について書かれた一般向けの解説書や分厚い専門書とも一致しないことをよく承知している。耳を貸そうとしない社会科学者や一般人に対して、ロウは科学史を引き合いに出してこう述べている。「その昔、地球は平らだと思われていた。専門人も一般人も間違ったことを信じている時代もあるのだ」
また、現在ではこのような蓄積されたデータに関して、「必ずしも、幼少期の環境や教育の影響は定量的データで計測できるばかりではない」と述べる論者も存在し、それなりの説得力はあるのですが、それでも、その影響を定量的に示すことが出来ない以上、あまり幼少期の教育やトラウマを過大評価するのはあまり合理的でも理性的でもないように思えます。つまり、幼少期の教育やトラウマの影響を定量的データのみから影響を測れないという可能性についてどれだけ論理的に説明ができたとしても、それが定量的に測定出来ない(つまり、目に見えないし統計データには現れることのない)けれど大きな影響力を持っているということの証明にはなりえません。(例えるなら、人間に神の存在が確認できないからといって神が存在しないことの証明にはならないということをいくら論理的に示すことができたとしても、それのみでは神の存在証明には明らかに不十分であるということに近いかもしれません)。
またフロイトの人間におけるほとんどあらゆる行動原理や精神のあり方の基礎に性欲を置いている面も基本的には証明不可能です。普通の人間であれば、別に四六時中セックスのことばかり考えていることなどないでしょう。しかし、フロイトは理論ではそれに対し、「いや、それは意識化されず無意識の領域に抑圧されているからだ」とするわけですが、無意識の領域とは、意識できない領域であるだけに確認することも証明することも不可能です。
もし仮に、「すべての人間の行動や精神のあり方の基礎にはりんごを食べたいという欲求がある!!」と言い出す人間がいたら、おそらく「いや、そんなに四六時中りんごのことばかり考えてる人間なんていないよ」と言うでしょう。それに対して、「いや、それは意識されていないだけで、本当は無意識のうちに抑圧されたりんごを食べたいという欲望が存在し、その抑圧された欲求こそが人間の行動や精神のあり方を規定しているのだ!!」などと言っていたら、「何言ってんだこいつ?」と思うでしょう。確かに、りんごを食べたいという欲求と性欲とでは、後者のほうがより一般的かつ、普遍的であり、たしかにそちらの欲求の方がより大きなエネルギーを生み出しているだろうと推測することは可能かもしれませんが、それを証明することが不可能であるという点ではりんごを食べたい欲求も、性欲も大差ないわけです。
また、現在はフロイトの活躍した時代と違い禁欲主義の時代ではなくなっているため、それまでは徹底的に隠して心の奥底へと抑圧していたかもしれない性的欲求だって、別にそんなに隠しこもうとすることもなく、割とオープンに開放しているわけです。友人の間で誰とやったのなんのという会話をすることだって別に珍しくもないでしょう。
フロイトの理論では抑圧された感情こそが、その人間の行動を規定すると述べているのですが、性的な欲望や話題をオープンにしており、当時より遥かに禁欲的ではなくなった時代である現代において、フロイトの時代と対して変わらない人間の行動を見れば、ある意味で、性欲が人間のすべての行動原理ではないことは明らかではないでしょう(もちろん、この場合フロイトの「抑圧された感情が人間の行動を規定する」という部分が間違っているが、性欲が人間の行動原理であるという部分は実は正しいということもありうるわけですが、その場合でもフロイトの理論が間違っていることに変わりはありません)。
もちろん、フロイト的な精神分析の考え方は読み物としては面白いし、一つの仮説としてはあって構わないとは思うのですが、基本的には時代遅れの非科学的な考え方であると捉えるべきであって、それをあまり過度に一般化させたり、それを基礎として様々な理論を組み立てたり、そのレンズを通して様々な物事や現象を解釈していくのはいかがなものかと思っています。
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>佐藤健志さんの『震災ゴジラ』を読んでも思ったのですが、佐藤健志さんは相当にフロイトの基本的な考え方を踏襲した上で、なおかつそれを様々な分野にある意味安易に適用させることで理論を飛躍しすぎているのではないかと思うのです。
と、批判しました。
フロイトに関しては、色々な見方があるものの、現在の心理学の世界では大方の見方として、「フロイトはインチキだった」と考えられています。
とはいえ、色々と功罪はあるので、今回は私がフロイトについて考えていることに関してあれこれ解説をしてみたいと思います。
まず、フロイトを説明するときに、最も一般的に説明されるのが、無意識の領域を発見した人物というものです。しかし、これは実際にはそうではありません(例えば、ユングはフリードリヒ・シェリングが西洋における無意識の発見者であるとしています Wikipedia『無意識』)。
この点から、フロイトは無意識の発見者というよりも、無意識の存在を世に広く知らしめると同時に、フロイト流の独特の無意識の考え方を提唱した人物であると言えるでしょう。
そのフロイトが、人々の人格形成における非常に重要な要素として考えたのが、幼少期のトラウマと抑圧された性欲という二つの要因です。特に、幼少期のトラウマがその人のどの後の運命を決定づけるという理論は、結構広く信じられていました。今では、それほど強力に信じられているワケでもありませんが、やはり何か青少年の凶悪犯罪などが発生するとその犯人の親や生まれ育った環境について強い関心が向けられることから、未だにそのような考え方の名残はある程度存在していると考えられます。
『フロイト先生のウソ』という本では、このような一昔前の俗説に関して、定量的なデータによる一切の根拠は存在しないとして、次のように述べます。
近年集められた膨大なデータや統計を見れば、これはもう「誤り」のほうだったとしか言いようのない状況である。データを集めれば集めるほど計算モデルに改良を加えれば加えるほど、圧倒的であるはずの教育の影響力は低下していく。(中略)
こうした革命的研究者たちは、自らのテーゼが世間一般の常識に反するばかりか、教育について書かれた一般向けの解説書や分厚い専門書とも一致しないことをよく承知している。耳を貸そうとしない社会科学者や一般人に対して、ロウは科学史を引き合いに出してこう述べている。「その昔、地球は平らだと思われていた。専門人も一般人も間違ったことを信じている時代もあるのだ」
また、現在ではこのような蓄積されたデータに関して、「必ずしも、幼少期の環境や教育の影響は定量的データで計測できるばかりではない」と述べる論者も存在し、それなりの説得力はあるのですが、それでも、その影響を定量的に示すことが出来ない以上、あまり幼少期の教育やトラウマを過大評価するのはあまり合理的でも理性的でもないように思えます。つまり、幼少期の教育やトラウマの影響を定量的データのみから影響を測れないという可能性についてどれだけ論理的に説明ができたとしても、それが定量的に測定出来ない(つまり、目に見えないし統計データには現れることのない)けれど大きな影響力を持っているということの証明にはなりえません。(例えるなら、人間に神の存在が確認できないからといって神が存在しないことの証明にはならないということをいくら論理的に示すことができたとしても、それのみでは神の存在証明には明らかに不十分であるということに近いかもしれません)。
またフロイトの人間におけるほとんどあらゆる行動原理や精神のあり方の基礎に性欲を置いている面も基本的には証明不可能です。普通の人間であれば、別に四六時中セックスのことばかり考えていることなどないでしょう。しかし、フロイトは理論ではそれに対し、「いや、それは意識化されず無意識の領域に抑圧されているからだ」とするわけですが、無意識の領域とは、意識できない領域であるだけに確認することも証明することも不可能です。
もし仮に、「すべての人間の行動や精神のあり方の基礎にはりんごを食べたいという欲求がある!!」と言い出す人間がいたら、おそらく「いや、そんなに四六時中りんごのことばかり考えてる人間なんていないよ」と言うでしょう。それに対して、「いや、それは意識されていないだけで、本当は無意識のうちに抑圧されたりんごを食べたいという欲望が存在し、その抑圧された欲求こそが人間の行動や精神のあり方を規定しているのだ!!」などと言っていたら、「何言ってんだこいつ?」と思うでしょう。確かに、りんごを食べたいという欲求と性欲とでは、後者のほうがより一般的かつ、普遍的であり、たしかにそちらの欲求の方がより大きなエネルギーを生み出しているだろうと推測することは可能かもしれませんが、それを証明することが不可能であるという点ではりんごを食べたい欲求も、性欲も大差ないわけです。
また、現在はフロイトの活躍した時代と違い禁欲主義の時代ではなくなっているため、それまでは徹底的に隠して心の奥底へと抑圧していたかもしれない性的欲求だって、別にそんなに隠しこもうとすることもなく、割とオープンに開放しているわけです。友人の間で誰とやったのなんのという会話をすることだって別に珍しくもないでしょう。
フロイトの理論では抑圧された感情こそが、その人間の行動を規定すると述べているのですが、性的な欲望や話題をオープンにしており、当時より遥かに禁欲的ではなくなった時代である現代において、フロイトの時代と対して変わらない人間の行動を見れば、ある意味で、性欲が人間のすべての行動原理ではないことは明らかではないでしょう(もちろん、この場合フロイトの「抑圧された感情が人間の行動を規定する」という部分が間違っているが、性欲が人間の行動原理であるという部分は実は正しいということもありうるわけですが、その場合でもフロイトの理論が間違っていることに変わりはありません)。
もちろん、フロイト的な精神分析の考え方は読み物としては面白いし、一つの仮説としてはあって構わないとは思うのですが、基本的には時代遅れの非科学的な考え方であると捉えるべきであって、それをあまり過度に一般化させたり、それを基礎として様々な理論を組み立てたり、そのレンズを通して様々な物事や現象を解釈していくのはいかがなものかと思っています。
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