以前書いた記事(『『全体性と内蔵秩序』(D・ボーム 著)を読んで~理論とは何か?理解するとはどういうことか?~』)で取り上げた、『全体性と内蔵秩序』に関して、運命論や、還元主義について否定する文章がったので、少し批判というか、反論をしてみたいと思います(どこに書かれていたのか忘れてしまったので引用は無しで)。
運命論や、自由意志の否定ということを言いだすと、どうにも惨めな敗北論者みたいな印象を与えるので、あまりそういうことを一般には言わない方が良いと思うんですけど、まあ、実際のところ私は運命論者であって、自由意志はほとんど存在しないのではないかと思っています。
例えば、現在の科学や心理学の分野では、どんどん、人間の思考や行動に与える内的、外的な要素が解明されていっています。例えば、それまでの素朴な運命論は、生まれや環境や遺伝子がその人の運命をおおよそ決定づけると考えていたワケですが、現在では、実に多様な要因が、ある人物の思想や行動に影響を与えているということが証明され、現実に、それまで人間の自由意志であると思っていた範囲の幅がどんどん狭まっているワケです。それから、内的な動機づけすら現実には、実際には自由意志とは言い難く、その人物の心理的傾向による内的影響の一つであるとみなせるわけです。
そうなってくると、現実に自由意志の範囲は、科学が進歩し、人間の性質というものを解き明かしていくごとに、自由意志(であるとそれまで人が思っていた)の範囲は無限に狭まっていくこととなり、そして(そんな日は一生来ないでしょうが)ある日、科学が人間の性質の一切を解き明かした瞬間に、自由意志はゼロになるのではないかと思うのです。
ただし、じゃあ、自由意志が存在しないからといって、全ての未来を予測できるのかというとそれは違って、現実には、人間の認識能力には限界があるのでこの世のあらゆる事象を予測することは不可能であり、つまり認識し切れない事象が他の事象に影響を与えるので、完全に未来を予測することは不可能(現実の人生を考えると、思いもよらなかった偶然が作用して、その後の経過に大きな変化をもたらすということはよくあるのではないかと思います)であり、さらに、あくまで主観的には人間は自由意志を持っていると認識しているので、あくまで、自由意志一切ない、完全な運命論的、決定論的な世界は、ほとんど、「この世は11次元で出来ています」みたいな理論的な仮想的事実でしかないとは思っています。
つまり、人間に自由意志(正確にはこの世界が自由意志によって何らかの影響を与える余地の有無)はあるのか?という問い自体が(哲学的な問いかけとしての価値はあったとしても)現実には、何の意味もないとも言い得るわけです。
つまり、現実には、運命論的な世界であるがゆえに、全ての未来を予測できることもなければ、主観的にはある程度人間は自己決定的な存在であるのだから、そこで「自由意志はありません」とか「あらゆる事象を考慮するならば、世界の全ての運命は決定しています」などと言うことに何の意味もないじゃないか。ともいえるワケです。
「結局、何が言いたいんじゃー?」とモヤモヤする内容だったかもしれませんが、なんとなく、以前から考えていた人間の運命論、決定論、自由意志に関する現時点の私なりの考察について書いてみました。
↓応援よろしくお願いします(σ≧∀≦)σイェァ・・・・・----☆★

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例えば、現在の科学や心理学の分野では、どんどん、人間の思考や行動に与える内的、外的な要素が解明されていっています。例えば、それまでの素朴な運命論は、生まれや環境や遺伝子がその人の運命をおおよそ決定づけると考えていたワケですが、現在では、実に多様な要因が、ある人物の思想や行動に影響を与えているということが証明され、現実に、それまで人間の自由意志であると思っていた範囲の幅がどんどん狭まっているワケです。それから、内的な動機づけすら現実には、実際には自由意志とは言い難く、その人物の心理的傾向による内的影響の一つであるとみなせるわけです。
そうなってくると、現実に自由意志の範囲は、科学が進歩し、人間の性質というものを解き明かしていくごとに、自由意志(であるとそれまで人が思っていた)の範囲は無限に狭まっていくこととなり、そして(そんな日は一生来ないでしょうが)ある日、科学が人間の性質の一切を解き明かした瞬間に、自由意志はゼロになるのではないかと思うのです。
ただし、じゃあ、自由意志が存在しないからといって、全ての未来を予測できるのかというとそれは違って、現実には、人間の認識能力には限界があるのでこの世のあらゆる事象を予測することは不可能であり、つまり認識し切れない事象が他の事象に影響を与えるので、完全に未来を予測することは不可能(現実の人生を考えると、思いもよらなかった偶然が作用して、その後の経過に大きな変化をもたらすということはよくあるのではないかと思います)であり、さらに、あくまで主観的には人間は自由意志を持っていると認識しているので、あくまで、自由意志一切ない、完全な運命論的、決定論的な世界は、ほとんど、「この世は11次元で出来ています」みたいな理論的な仮想的事実でしかないとは思っています。
つまり、人間に自由意志(正確にはこの世界が自由意志によって何らかの影響を与える余地の有無)はあるのか?という問い自体が(哲学的な問いかけとしての価値はあったとしても)現実には、何の意味もないとも言い得るわけです。
つまり、現実には、運命論的な世界であるがゆえに、全ての未来を予測できることもなければ、主観的にはある程度人間は自己決定的な存在であるのだから、そこで「自由意志はありません」とか「あらゆる事象を考慮するならば、世界の全ての運命は決定しています」などと言うことに何の意味もないじゃないか。ともいえるワケです。
「結局、何が言いたいんじゃー?」とモヤモヤする内容だったかもしれませんが、なんとなく、以前から考えていた人間の運命論、決定論、自由意志に関する現時点の私なりの考察について書いてみました。
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