いよいよ旅が始まる、このような成長の機会をいただけるのは、ありがたい限りである。
何を感じ、どのように自分が変化していくのか?楽しみである。
今回のチケットは以下の通りだ。
1200羽田初
1900フランクルフト(ドイツ)
2100アムステルダム(オランダ)
このチケットをみてフライトは何時間だと思うか?
9時間!
と思ったはずだ。
実はそうではない、
日本とオランダ時差は7時間あるのでフライト時間は何と、
16時間である。
ロシア、ウクライナが戦争をしているため、ロシア上空を避けてアイルランドの方を大回りし、外気温−50℃という表示の窓側席は、かなり寒すぎだった。
9時間なら余裕だなと、たかを括っていた私はあと7時間をどう過ごすか悩んだ。
隣には体重100キロ超えと思われる男性がおり狭く、イビキ等等で全く眠れなかった。
四十も超えるとさすがにエコノミー症候群リスクがあがるので、怪しまれるのもおかまいなしで、トイレで複数回ストレッチをした。
あと7時間は来期の経営計画書づくりに勤しむ事とした。
仕事をしていたらあっという間に着陸アナウンスになった。
やはり集中力とは体力がほとんどのような気がする。
日本時間の深夜2時にやっとトランジット(乗り継ぎ)でドイツへ入った。
寝ぼけまなこで久々の入国審査に挑んだ。
受付の女性は威圧的な態度で
「how long?」と「alone?」を繰り返してきた。
どちらを言っているのか混乱したのと、なぜか通過させないぞ!というような気迫に満ちた態度を感じ必死に答えた。
おかげて眠気も吹っ飛び、ようやく通過。
そこから30分かけてアムステルダム行きの乗り場へ向かい、水を買ってから機内に乗り込んだ。
機内から見える景色にワクワクが止まらなかった。
日本時間の深夜4時にアムステルダム空港へ到着。空港の掲示板に最高気温28度/最低19度と記載があった、今日は暑くなりそうだ。
昨年のオーストラリアでのボッタクリ経験を活かし、待っているタクシーでホテルは向かうのはやめ、アプリを使った。
元々学生時代にバックパッカーをしていた時はアプリなんぞなかったが、スマホがあれば一人旅もほとんど困ることはない。
便利な世の中になったものだ。
でもこのスマホ、厄介な側面もある。そう、
常にほとんど繋がってしまうのだ。
昔は、海外に旅にでていたからといえば色々な理由になったが、いまはそれができない。
そういう意味では遊びもなく、心休まりずらい世の中になったものだ。
便利すぎるのも不便である。
旅というものはトラブルがつきもので、それが予定調和の旅行とは違った偶然を連れてきてくれるし、適応力の強化にもつながるという、良さが薄れつつあるのは悲しい気もする。
さて、
順調に深夜のアムステルダム郊外をタクシーで走ってはしっていると、突然
パンパンッ!という銃声のような音がきこえた。
慌てて頭を低くしてから、アフリカ出身といっていた青年運転手に聞いてみた
「what sound?」
「俺にはわからない」という返答。
声のトーンと横顔が、この街では日常だぞ、という雰囲気を醸し出していた。
怖!
車を走らせ30分、ようやくホテル前に到着し、フロントに行くための外の入り口で 何やら怪しいものを吸っているカップル がいた。
あ、マリファナが合法な国だった。。
そう、オランダは世界一自由な国だ。
マリファナ、買春、移民や難民の受け入れ、多様性を尊重する多文化社会としての特徴が際立ち、同性婚の合法化、安楽死の合法化など社会的な変化が進んでいる国でもある。
世界一高身長の国、
人口1800万人、
国土は日本の九州とほぼ同じ。
ホテルの部屋に入ると、屋根裏部屋であった。
エアコンもない
バスタブない
これも修行だな、、、
と思いシャワーを浴び、泥のように眠りについた
仮眠をしてから早朝6時起床、
アンネフランクの隠れ家に行くことがオランダに来た目的だが、その前に歴史的建造物からその地の歴史に触れてみたかった。
オランダは第1次世界大戦の際に中立の立場を守りつづけ主戦場にはならずにすんだから多くの歴史的建造物や絵画が残されている。
隣国ベルギーは戦場となり、多くの難民がオランダに逃れてきたそうだ。
ゴッホやフェルメール、レンブラントなど世界有数の芸術家が誕生した国でもあり、美術館に限らず、街中や教会でも中世から近代の芸術作品に出合うことができる。
美術は好きで高校でも選考していたが、芸術の領域になると、それを見る者の人間的成熟度が問われるといわれているようで、今まではあまりわからなかったが、四十もすぎれば何を感じられるか楽しみだ。
Tシャツで街を歩いていているとすぐに気づく。
街がとにかく静かだ。
アジアのような車のクラクションを鳴らす文化がないし、おまけにバイクもほとんど走っていない、バスも電気で走っている。
そして、ほぼみんな自転車で移動、なんと人口当たりの自転車保有台数世界一らしい。
でも、汚い。
人口80万人の街に、日帰り観光客だけで年間1500万人。
働いている方の多くは、若い学生か黒人の方が多いように感じた、
移民の方々の失業率の高さ(50%程度)は、フランスもそうだが問題になっているようだ。
そうそう、
旅をしているときは必ず
・すべての交通機関に乗る
・庶民の暮らしがわかるスーパーで買い物へ
・食事は安い店、高い店の両方へ行き現地人と話す
をポリシーにしている、
現地のリアルが見えるからだ。
道路を走る電動路面電車は約1ユーロ(160円)~乗れる。
タクシーが20ユーロもするので20分徒歩圏内への移動はとても助かる。
ゴッホ美術館、国立美術館等を一通り巡った。四十を過ぎて感じたことは、風景を忠実に描く絵画よりも、作者の思いが込められている絵が好きだということだった。
そして、じっーと見つめていると目が慣れてきて色々なものが見えてきた面白かった。
さて、いよいよアンネフランクの隠れ家へ向かった。
アンネフランクの隠れ家博物館の受付は人がごった返していた、
その中をわけいって入り
「今日のチケットを1人分」と伝えると、
「2ヶ月先までいっぱいだ!とても有名な場所だからわかるだろう」という。
しまった!
もう夕方になっていたので作戦を立て直すために夕食をとりながら考えた。
(この時期のオランダは21時でも明るい白夜だ)
3時間ほどかけてネットから明日15時入場のチケットを正規の3倍の価格で、恐る恐る購入した。
これで明日入れるといいのだが。。
翌日、気を取り直してアンネフランクの隠れ家へ。
恐る恐る受付でQRを見せると、
okということでほっとした。
中に入ると、当時の世界情勢を把握できる掲示物を多く目にすることができた。
そう、時は第二次世界大戦。
ドイツ率いるヒトラーは、オランダにも侵攻し、ユダヤ人狩りを始めていた。
起業家だった、アンネの父オットーは起自身の事業の他にも銀行の経営を父親から引きついでいた。
事業で縁のあったオランダ移住後も、キューバや隣国へ亡命するために様々なビザ発給願いを出していたようだが、それも叶わず。
オランダの自分の事務所を隠れ家にし、ユダヤ人でない幹部メンバーに生活支援をしてもらいながら、約2年間ここで息をひそめて生活していたのだ。
奥へ進んでいくと、隠し扉が本棚
の裏にあり、急な階段を登ると当時つかわれていた机や椅子、生活用品がそのままであった。
(写真撮影は一切NG)
柱の一つに、アンネの成長を記録するための線が引かれている場所もあった。
直筆の日記もそのまま残っており、ある文章で目が止まった。
私の願いは2つ、
「全ての人が尊重されること」
「私がいなくなっても私は生き続けたい」
涙がこぼれおちて、我にかえった。
アンネ家族はこの隠れ家生活2年後にナチス親衛隊に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員が強制収容所へと移送された。
アンネは姉とともにドイツのベルゲンベルゼン強制収容所へ移送。
同収容所の不衛生な環境に耐え抜くことはできず、4ヶ月後に発疹チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。翌月にはイギリス軍によりこの場所が発見され解放されていたことが悔やまれる。
両親はアウシュビッツ強制収容所へ移送され、父オットーだけが生き残った。
2つ目の願い
「私がいなくなっても私は生き続けたい」
この願いは父オットーによりアンネの日記は書籍化され、世界中で読まれている。
1つ目の願い
「全ての人が尊重されること」
これは今も世界的な課題だ。
そもそも、なぜこのようなことが起こったのか?
ドイツ率いるヒトラーは民主主義のもとに、選挙で正当に選ばれたリーダーだった。
同様なことが起こらないようにするために、私たちにできることは何か?
そんな問いをたて、様々な感情を抱きながらホテルへ戻った。
つづく。