5月3日(火曜日)
【岩崎氏】 過去記事を再掲載します
岩崎信隆(武田七郎)
武田信光の5子。甲斐国山梨東郡岩崎を本拠として、岩崎氏を称する。
『吾妻鏡』の1244年の正月の射手に武田七郎の名が見える。承久の変では父に従い活躍している。http://ameblo.jp/katsuyori/entry-10099972795.html
武田政隆(七郎)
岩崎信隆の子。
武田時隆(七郎二郎)
岩崎信隆の2子。
岩崎信方(七郎三郎)
岩崎信隆の3子。信賢ともある。信隆の跡を継ぎ安芸国に住むとある。
岩崎貞隆(七郎五郎)
岩崎信隆の4子。
武田政嗣(七郎太郎)
武田政隆の子。
武田宗光(二郎五郎)
武田時隆の子。
岩崎信経(岩崎弥五郎)
岩崎貞経の子。
武田助政(太郎四郎・八郎)
武田政嗣の子。『大善寺文書』1326年の関東下知状に武田八郎助政の名が見える。
武田隆盛(弥四郎)
武田政嗣の2子。
岩崎盛信(十郎太郎・甲斐守)
武田政嗣の3子。『太平記』1336年に甲斐守盛正(盛信)、1352年甲斐前司、『天竜寺供養記』1345年武田甲斐守前司とそれぞれ見える。岩崎氏が一時、甲斐守であったことを示している。
1352年新田義宗との武蔵野合戦には武田信武に従っている。
岩崎氏は1458年の守護武田信昌と守護代跡部景家との合戦で一門の多くが討死し、滅んだと思われる。『一蓮寺過去帳』の岩崎小次郎、岩崎源次郎の名が見える。
しかし『王代記』には1468年岩崎小太郎(信光か?)討死が見える。実際にはこの合戦で岩崎氏は滅亡した。この頃岩崎氏は跡部氏の支配下にあった。
武田信貞(弥五郎・大膳大夫・伊豆守)
武田宗光の子。建武武者所。1337年新田・楠木軍が兵庫湊川で敗れると後醍醐天皇に従い比叡山へ逃れた。
武田時信(七郎二郎)
武田宗光の子。
武田信助(八郎次郎)
武田助政の子。
http://ameblo.jp/katsuyori/entry-10100526547.html
岩崎氏が活躍したのは鎌倉時代から室町時代前半。この時代は甲斐史の空白期といわれ、その意味でも重要な史跡。「御旗」、「楯無鎧」を、相伝したことでも有名。
岩崎氏館跡は国道20号バイパス建設よる破壊、また田畑に転用されてその地に館跡があったことは道路脇の案内板が示すのみである。
ただ、建設にあたり行われた発掘調査では陶磁器等が発見されたという。