5月26日(月曜日晴れ


今日も1日休ませてもらいます(*´Д`)=зフー叫びしんどいあせる



武田信政(小五郎・伊予守・若狭守・安芸守) ?-1265

武田信光3子。母は『甲斐国誌』によれば宇都宮氏。守護となった証拠なし。

『吾妻鏡』には1195年8月の流鏑馬射手16騎の一人に、あるいは1219年の将軍頼経の関東下向の随兵にもその名をとどめている。また承久の変に参加、大井戸の渡しの戦いで活躍している。

『明月紀』によると1235年6月、石清水八幡宮神人と、興福寺僧徒の闘争があった時、六波羅は武田信政・宇都宮泰綱を遣わして鎮圧させ、大住荘官らを捕らえたことが見える。

1265年1月6日没。菩提寺は不明。一蓮寺の法名は眼阿弥陀仏。


一条信長(一条六郎・武田六郎)

武田信光4子。伯父一条忠頼の名を襲って一条信長と称した。兄信政の後武田氏惣領の地位を一時継いだ。信政の系統は安芸に移住し、信長が甲斐に残り守護となったか?

信長は幼少のころから弓馬の達者として知られている。『吾妻鏡』の1223年から1241年まで、鎌倉における射手、又は随兵として登場する。すなわち1223年1月、1230年1月の弓始の射手、1229年10月の流鏑馬の射手など全ての射芸に名を連ねている。

1238年6月5日将軍藤原頼経が将士を従えて春日社に参詣した折り、その行列に随兵している。

1254年7月に武田八幡宮に大般若経600巻を寄進、それには「願主源信長」と署名している。

                                           右信長流


岩崎信隆(武田七郎)

武田信光の5子。甲斐国山梨東郡岩崎を本拠として、岩崎氏を称する。

『吾妻鏡』の1244年の正月の射手に武田七郎の名が見える。承久の変では父に従い活躍している。

                                           右信隆流


石橋信継(岩崎八郎)

武田信光の6子。石橋氏を称する。八代郡に石橋村がある。


馬淵信基(岩崎九郎)

武田信光の7子。馬淵氏を称するが発祥地は不明。間淵とも。


武田光信(十郎)

武田信光の8子。


山田光性

武田信光の9子。山田氏を称するが発祥地は不明。



次は岩崎信隆流ですグッド!