ちょっといい話の回覧板 | 浪花のコーチング税理士☆食べ歩き編

ちょっといい話の回覧板

 【勉強の心を失わず、実践に活かす】

メルマガ「人の心に灯をともす」より

向谷匡史(むかいだにただし)氏の心に響く言葉より…


《知識がどんなに十分であっても、 これを活用しなければ何の役にも立たない》(渋沢栄一)


人間、努力が肝心で、怠惰からは決して好結果は生まれない。

そして、いったん怠けてしまえば最後まで怠けてしまうのが私たちだとして、渋沢はこんな言い方をする。 


「立って働くより楽だからと怠け心を起こし、坐って仕事をしたとする。

なるほど楽なように思えるが、これも長時間、坐っていると膝が痛くなってくる。

ならばと今度は寝転んでみる。

そのほうが楽になるはずだが、これも長く横になっていれば腰が痛くなってくる。 

すなわち怠惰はどこまでいっても怠惰のままであって、ますますひどくなってしまう。

だからこそ、人はよい習慣――すなわち、勤勉や努力の習慣を身につけるようにしなければならない」 


楽をしたいとする怠け心はどんどんとエスカレートし、結局、好結果が生まれることはないというわけだ。

渋沢に言われなくても、このことは私たちにもわかってはいる。

だが、 渋沢のこの言葉は七十四歳、大正二(一九一三)年のときのものである。

現代においてもじゅうぶんに老境だが、平均寿命が四十三歳前後であった時代の七十四歳ともなれば、単純にスライドできないとしても、いまなら百歳にも匹敵するだろう。 


その渋沢が、こう檄を飛ばす。

「ここ数年はなるべく雑務を避けるようにしてはいるのだが、まったくヒマの身にはなれず、私が設立した銀行とはいまでも面倒をみるなど、年老いてからも活動している。

すベての人間は老人と青年と関係なく、勉強の心を失ってしまえば進歩や成長はない。

私自身、 勉強家のつもりでいるし、実際、一日たりとも職務を怠ることがない。

毎朝七時少し前に 起床して、来訪者に面会するように努めているし、来訪者がどんなに多くても、時間の許す限り会うことにしている。

私のように七十歳を超える老境に入っても、まだこのように怠ることがないのだから、若い人々には大いに勉強してもらわなければならない」 


繰り返すが、いまから百年以上も前の七十四歳が一日たりとも職務を怠らず、毎朝七時前から起きて詰めかける来訪者をさばいている。

定年がどうだとか、働き方改革がどうだとか、労働環境をめぐる議論がにぎやかだが、それはそれで時代の趨勢であるとしても、 渋沢がいまの時代を見れば何と言うだろうか。


渋沢の言行録をよくよく読んでみると、「勉強」という言葉をよく用いているし、勉強の大切さをことあるごとに説いているが、渋沢の本質はリアリストであり「実践の人」であることがよくわかる。 

「世間の人たちは『知識を積まなければならない』『時代を読み解かなければならない』と言う。

なるほどそのとおりで、これは必要なことだ。

時代を知り、決断や選択をするためには知識が必要で、そのためには学問を修める必要がある。

だが、知識がどんなに十分であっても、これを活用しなければ何の役にも立たない。

勉強したことを実践に結びつける方法も学んでいかないと、どんなにたくさんの知識があっても、まったく活用できなくなる」 


現代流に言えば、知識はビジネスのハウツーとして確立してこそ意味を持つということになるだろう。


《知識はそれ自体に意味はない 生活に学び、現実に活かして価値を持つ。》 

『渋沢栄一「運」を拓く思考法』青志社




「一生勉強 一生不悟」


もっとも卓越した人々は、自己研鑽や、勉強をやめなかった人々、 今もやめない人々のことである。 

苦労なくしては何も得られない。 

人生は永久に勉強である。 

(フランスの詩人・思想家 シャルル・ペギー)



相田みつをさんは、「一生燃焼、一生感動、一生不悟」という言葉を残している。

一生勉強すれば、感動もついてくる。

また、感動する人だけが、人を感動させることができる。

そして、いくら勉強しても、これでいいということはない。

それでわかったということもない。


つまり、一生、悟(さと)ることはなかなかできない。

迷い、ぶつかり、失敗を重ねるからこそ人間なのだ。


勉強の心を失わず、実践に活かすことができる人で。

 


■朝早く送られてくる、友人のにしやんからのちょっといい話を回覧板にしてしまいました。次の人に回覧してあげてくださいね。

 

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