六祖慧能は寺の食料の脱穀係で、僧ではなく、坐禅と縁はありませんでした。
坐禅は有意義な修行の形です。
でも、なくてならぬ行為ではないです。
なんで、こんな事に気付かなかったか。
禅の歴史、それもターニングポイントにあたる場面で「必ずしも坐禅は必要ではない」と明記されている、ということです。
私は以前「坐禅しなきゃ悟りなんかとてもとても」と「禅学者」の方向に進んでしまっていました。
ケースバイケースになると思いますが、
若い方々に、この件、
「坐禅無用」をお伝えいただきたいです。
よろしくお願いします。
※※※※※
無題
この件に関して、先日、元・坊さんの師匠も
「この間、BSで中国のとある禅寺の風景が流れていましたが、
僧侶がみな、めいめいにリラックスした姿勢で修行に取り組んでいました。
実に心和らぐ光景でした」
と、おっしゃっていました。
「この間、BSで中国のとある禅寺の風景が流れていましたが、
僧侶がみな、めいめいにリラックスした姿勢で修行に取り組んでいました。
実に心和らぐ光景でした」
と、おっしゃっていました。
2012-05-06 14:37:19