1926年新感覚派聯盟ナショナルアートフィルム社
「狂った一頁」
監督 衣笠貞之助
監督補助 小石栄一
大杉正巳
原作 川端康成
脚本 川端康成
衣笠貞之助
犬塚稔
沢田晩紅
撮影 杉山公平
撮影補助 円谷英一
現像主任 阿部茂正
舞台装置
配光 内田昌天
タイトル 武田清
出演
小使 井上正夫
妻 中川芳江
娘 飯島綾子
青年 根本弘
医師 関操
狂人A 高勢実
狂人B 高松恭助
狂人C 坪井哲
踊り子 南栄子
「我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ。精神病者ノ救済・保護ハ実ニ人道問題ニシテ、我邦目下ノ急務ト謂ハザルベカラズ」
ーー東京帝国大学医科大学教授・呉秀三
(夜。雨が降っている)
日の暮れ方より降り始めた雨は……やがて勢いを増し、車軸を流すような激しい降りとなった。
(精神病院の建物)
(車がやって来る)
震災復興事業として施工されたアスファルト舗装の新型道路ですら、たちまち濁流と化したのである。
(稲妻)
(濁流)
(玄関の前に立っている人物)
(雷鳴)
(クルクル回っている球)
(ダンサーが踊る)
彼女はーー本人の言を信ずるならば、全国を興行してまわる曲馬団の花形ダンサーだったという。ショウの冒頭と最後には必ず彼女の踊りが付き物だった。その優美かつ妖艶にして流れるような舞いに、観客はみな見惚れて言葉を失ったーーと本来無口であるはずの彼女はときおり憑かれたように語るのである。
(カメラが引いて行くと、格子のような影)
(鉄格子の窓)
(踊り子の踊る影)
(独房で踊る踊り子)
しかし今ーー彼女が踊るのはこの小さな部屋。身に纏っているのは煌びやかな舞台衣装などではなく、薄汚れてところどころ破れた貫頭衣。
(22、28、25、30、23、18、60、24、27)
(何事か叫び続ける狂人A)
言葉にならぬ唸り声や、社会や他人に対して激しく抗議・怨嗟する声が夜毎病棟に響き渡るーー。
(鉄格子に捕まっている妻)
多くの者が、鉄格子によって世界から隔絶されていた。
(鉄格子に摑まっている狂人男)
(踊り子の足元)
しかし彼女はーー踊り子は踊る。
(壁に貼られた自らの冩眞)
(部屋に横たわっている妻)
(看護婦が、廊下を歩いている)
(横たわっている妻)
踊り子は、踊るーー
激しく樹々を揺らす雨風に合わせ、また、時折闇を切り裂く稲妻や空気を震わす雷鳴に合わせてーー。濁流ーーその太く低い響きが彼女の踊りのリズムを下支えする。楽団の激しく打ち付けるようなメロディ。雨音……風の音……雷鳴……濁流……まるで固い床をその足で踏み抜かんといわんばかりの踊り子の激しいステップーー地獄のようなセッションが続く。
(踊り子、倒れる)
踊り子「(うすく目を開く)……」
それは夜毎繰り広げられる、観客のひとりとしていない特別興行であった。
(稲光が窓を照らす)
(闇)
(小使が闇の中歩いている)
踊り子は疲れを知らぬ。倦むことなく、踊り続ける。
(うつ伏せになっている女、じっと宙を見つめている)
(鉄格子を開ける小使)
今夜もーー女の前にその男は現れた。
小使「おいーー!」
見知らぬ男。しかも女を見るその視線は絶えず厳しかった。
女「赤ん坊?……私の……赤ん坊は……?」
(排水口に赤ん坊の顔)
妻「ああっ!ーーいたーーいた!……私の赤ん坊!(鉄格子に)いない」
(病棟の廊下ーー鉄格子)
彼はーー毎夜ひそかに病棟の鍵を持ち出し、その部屋に通うのだった。
(踊っている踊り子)
その部屋ーー二十五号室に。
小使「……」
数日前からこの病院に雇われている彼ーー
(横になったまま、自分の左手の指先を見る女)
小使「おいーー眠れないのか?」
女「(小使を見る)」
小使「具合でも悪いのか?ーーどうなんだ?」
(小使に向かって手を伸ばす女)
女「ああ、センセイ……それを……それをくださいな(起き上がる)……それを……ください……くださいよぅ……ねえセンセイ……それを」
(小使、ふと病棟入口に目をやる)
(女、小使の上着のボタンを引きちぎる)
女「嗚呼ーーやっぱりーー綺麗だわ。坊やに見せたらさぞ喜ぶでしょう。ふふふ」
小使「……(身を隠す)」
(激しく揺れる木の枝)
女「(手のひらにボタンを載せて)瑠璃に玻璃、真珠に瑪瑙、金剛石」
小使「(再び顔を出して)お前……」
(女の目に映るのは、奇妙な小使いの姿)
女「あははは、またそんな可笑しな顔をして、あははは」
女二「……こんばんは」
小使「(見送って)……あ、ああ」
夜が更けて行くほどに、雨の勢いは増して行くーー
小使「お前……」
(床に落ちたボタン)(水面)
小使「……あれは?」
(泣きじゃくる赤ん坊)
彼の脳裏に、実際には見ていないはずの光景がありありと浮かぶ。あの夜ーー今日のような激しい嵐の夜ーー彼はいつものように仕事に出かけた。産後の肥立ちが悪く半分寝たきりだった妻と、生まれてまもない長男を置いたまま。そしてーー
(川に飛び込もうとする女と必死でそれをとめる若い女)
小使「……」
その後ほどなくして、女は数年前にこの郊外に移転した脳病院に入院することになったのあった。かくて……また一日が終わる。
(激しい雨)
(暗い廊下を猫が走る)
(暗転)
(庭を走る黒い犬)
(翌日)
(廊下を歩く医員たち)
新しい一日が始まる。広大な敷地のなかには、いくつかの病棟を囲むように、かつての大名屋敷もかくやという庭が広がり、軽快患者や平静患者たちーー暴れたり逃走するおそれのない患者たちは治療の一環として昼間外に連れ出されることもあった。
(病院の正門)
(若い娘がやってくる)
(守衛が門を開ける)
(男子病棟)
医師「いや、まだ面会はーー」
娘「そうですか……」
子供「なんだよぅ、堅いこといわないでさーー」
(二十五番の病室)
(小使が立っている)
その少年には妙に大人びたところがあった。事務長の息子であるということを利用して、病院内のあちらこちらに出没する。
(歩いている小使)
娘「(驚く)……っ!」
子供「おじさんーー二十五号室のおばさんに会いたいんだってさ」
娘「ーー!」
小使「(娘に近づいて行く)……お前!」
娘「……父さん、なぜここに?」
少年「……ええ?どういうことだい?じゃあ、頼んだよ(去る)」
(娘、小使を置いて歩き出す)
小使「お、おい……(後を追う)」
(病棟の入り口で揉めるふたり)
外部から来る人物は、すべて狂人たちにとっては娯楽のタネである。
医員「さあさあ、入って入って」
(娘、入口の鉄格子を開けて中へ)
娘「……お母さんっ!」
(女、聞こえない)
小使「……」
娘「(顔をそむけて)お母さん」
(女、一心不乱に爪を触っている)
小使「……お前、今どうしているんだ?」
娘「……そんなの、あなたには関係ないでしょう(去る)」
女「あはははは」
(娘、廊下を歩いているとーー)
娘「ーーあっ!」
女患者「こんにちは。いいお天気ですね?いいお天気じゃありません?ねえ、いいお天気でしょう?」
小使「(割って入る)ああーーそうですねまったく」
女患者「あんたにいっていないんだよ。ちょっとーー待ちなさいよ!あたしはいいお天気だといってるんだ」
(外、さきほどの子供が花を摘んでいる)
娘「坊や、さっきはありがとう」
子供「あのくらいなんでもないよ」
娘「もしーー知っていたら教えてほしいのだけれど」
(ふたり、芝生を歩く)
すでに職業婦人として社会に出ていた彼女は、父親を許さなかった。あの日以来、彼女からの音信は途絶えていたのである。
(女性の大部屋)
病棟は男女に分かれるほか、作業棟、事務棟、職員の宿舎などがあり、病棟も症状の程度、自費か公費かの違いによって大部屋、個室、保護室などに区切られていた。
(大きく口を開ける男患者)
医師「うむ。だいぶいいね」
(ベッドに横になっている男性患者の額に手を当てる)
(元気よく行進する患者たち)
女患者「(近づいて来た医師に)あらセンセイ」
院長「やあ。気分はどうかね?」
女患者「いやだ、やめて、離して!」
何事かぶつぶつ呟く声、突如あがる叫び声、歌を歌うもの、お題目を唱えるものーーまるで噛み合わない会話を交わしながら楽しそうに笑うもの。今日も、昨日も、おとといもーーまるでおんなじ、変わらぬやりとりが続く。一週間前も一ヶ月前も、半年前にも確かに見た景色ーー
(廊下を歩く男患者たち)
世は大正デモクラシーの風が吹きすさび、新たな内閣が組閣され、脳病院を巡る新たな法律が成立したがーー
院長「(二十五号室の音ん家)気分はどうかね?」
女「……」
院長による回診はーー二言三言言葉を交わしたあとはじっと患者の様子を観察するだけであった。
(病棟の廊下)
(回診の様子をじっと見ている小使)
院長「(掌を出して)この指がはっきり見えるかね?」
小使「……センセイ……その患者は……治りましょうか?」
医師「(振り向いて)君には関係ないだろう!持ち場に帰りたまえ」
小使「はい……承知しました……(去る)」
医師「うむ。最初よりはずいぶん落ち着いてきたようだ。あとは頼むよ」
女「どうもセンセイーー何のお構いもいたしませんで」
身繕いは女のたしなみーー当今は「モダンガール」が流行りだというけれど、職業婦人でもあるまいし、やはり日本髪に着物は外せない。それでもキラキラしいものでささやかながら髪を飾るとぐんとはなやいで見えるーー女はそう思った。
(何度も載せては落ちる)
女「いいわ……これでいいわ」
(鏡に上下逆さまに写る日本髪の女の顔)
(笑う看護婦)
午前中の作業が一段落したところで、患者たちは看護人に付き添われて敷地内に広がる緑地を散歩する。
踊り子「どうして外にでられないの?どうして?」
(花の世話をしている小使)
移転するにあたり、「良質な井戸水が得られること」や「土地に高低があり、風致に飛んでいること」などという条件を満たしたこの郊外の鄙びた場所には特に外部の目を避けるような堅牢な壁など巡らされてはいない。それはこの国の精神医学の現状を憂う院長の方針だった。
女「(立ち止まる)」
娘「ねえ、あの二十五号室の女の人のことなんだけど」
子供「え?悪いけど、病棟にはあんまり行かないから知らないよ」
娘「実はねーー二十五号の女の人は、私のお母さんなの」
子供「ええ?そうなの?あのおばさんさあ、ときどき変なこというんだよ(真似をする)こんな風に」
女「……」
子供「ーーあっ(去る)」
(ベンチに座る娘の前を男患者たちが通る)
子供「(小使に飛びついて)おじさん!」
小使「なんだい?」
子供「あのお姉さんは、おじさんの娘なんだろう?」
小使「なーーなぜそれを?」
子供「それであの二十五号室のおばさんは、おじさんの奥さんなんだろう?」
小使「あの子がいったのかい?」
(歩いている娘)
子供「あのお姉さん、今度結婚するんだってさ(小使いの肩を叩いて)おめでとう!」
娘「……(振り返る)」
小使「おーい……」
(やってくる小使)
小使「お前……(一度振り返る)結婚するんだってな」
娘「……」
(娘の足元)
狂人A「(演説)戦さに勝つには先手必勝、吾輩が特に薦めるのは相撲取りの部隊を編成して敵の兵站を攻撃することである!」
患者たち「いいぞ将軍!」
医員「もうやめなさい(連れて行く)」
(女、ボタンを見ている)
小使・娘「(歩いている、立ち止まる)……あ」
女「(両手をあげる)」
娘「……お母さん」
声「いたぞーっ!」
娘「(振り返って)あっ!」
狂人A「女だっ!(襲いかかる)」
小使「やめろ!」
狂人A「ええい、どけ!どけーっ!女ーっ!」
普段見かけない人物を見かけると、興奮状態に陥る患者は少なくなかった。(正門を走って逃げる娘)
女「……」
女は、そんな騒ぎをよそに自らを囲んでいる世界の有り様をじっと見つめていた。
看護婦「さあ、お部屋に帰りましょう」
作業棟では、午後の作業が始まっていた。ここでの日常がゆっくり、少しずつ時を刻んで行く。
(ひとり部屋で踊る踊り子)
女性病棟に響き渡る踊り子の足音。
(踊り子の部屋に近づく女)
看護婦「ーーどうしたの?」
女「きれい!ーーきれいだわ!この娘さん!(舞台で踊る姿が見える)素敵ねえ!(手を叩く)(不思議な画像が見えている)」
看護婦「さあ、行きましょう!」
静かな、しかし熱狂的な拍手が、池の水面に小石を投げたように、病棟内に広がって行く。
看護婦「皆さん、落ち着いて!落ち着いてください!」
(引き伸ばされた踊り子の顔)
興奮は収まるどころかどんどん激しくなる。そして、女患者たちの熱狂は、離れたところにいる男患者たちにも伝染した。
医員「(鉄格子の扉を閉めようとするが)やめなさい!やめろ!」
病棟内は一種異様なほどの興奮状態に陥った。
男患者「いいぞーっ!」
男患者「我らが舞姫っ!」
踊り子は我関せず踊り続ける。
狂人A「いいぞーっ!いい女だ。まっこといい女だ!」
狂人「おーい、もっと顔を見せてくれ!俺にお前の顔を!」
狂躁はなおも激しく患者たちの心を奮い立たせる。顔を歪め、おめき、必死で手を伸ばす。その熱を受けて、踊り子の踊りも激しさを増す。
(鉄格子の方に飛んで行く)
医員「(もみくちゃになりながら)やめろ!部屋にーー部屋に戻るんだ!」
それはまるでーー中世ヨーロッパで流行を見た死の舞踏のようであった。迫り来る疫病の恐怖から逃れるために踊り狂う、集団的ヒステリー。しかし、彼らーー患者たちは迫り来る狂気から、逃げているのではなかった、それを両手をあげて迎え入れているように見えた。
狂人「いいぞ!いいぞ!もっと、もっとだ!」
それでもひとり、またひとりと病室に戻されて行く狂人たち。
院長「いったいこれはどうしたんだ!」
(小使やって来る)
(女、男患者に殴られる)
小使「何をするんだ!」
(小使、男患者に殴りかかる)
(小使に馬乗りになる男患者)
女「(ぼんやりしている)」
(下から殴り返したり髪の毛を摑む小使)
ようやくーー狂躁は去った。
院長「いい加減にしたまえ!君はいったい騒動を収めようとしているのか、一緒になって騒いでいるのではないか?」
小使「それは……すみません」
院長「気をつけてくれないと困る。患者と同じように興奮していては騒ぎは大きくなるばかりだ」
女「(見ている)」
狂人「(引きずられながら)ちくしょう!バカにしやがって!離せ!」
小使「……はい」
院長「(近づいて来る女に気づいて)おい、君、彼女を部屋へ。(小使へ)ちょっと、話がある」
小使「……はい」
院長「(手を洗う)いったい君は、この仕事をなんだと思っているのかね」
小使「……はあ」
院長「(椅子に座る)いいかね。今度今日のようなことがあったら、辞めてもらわなければならない。そのことはよく理解しておいてくれたまえ」
小使「ーーはい……(院長に頭を下げて)どうも、すみません」
そのころ娘はーー忙しく立ち働いていた。彼女は絶縁した父親の世話になることなく、働いて嫁入り道具を買い揃えようとしていた。
家政婦「おぼっちゃま、お見えになりました」
若い男「ああ、どうぞ」
娘「(顔を出す)どうも」
若い弟「やあいらっしゃい」
娘の幸せな未来ーーそれを知ることもなく、女は病室にいた。
(鳥籠の文鳥の水を換えている小使)
小使「……(娘に話しかけている)」
子供「おじさん!お祭りだよ!なんだか賑やか行列が通っているよぅ!」
小使「ああ、そうかい……(窓の外を見る)」
(幟を抱えた行列が練り歩く)
小使「やあ、確かににぎやかなもんだ」
いくつもの幟を抱えた行列が、病院の敷地内を練り歩く。縁日の賑わい。行列を見ている人々も笑っている。彼の表情も、自然に弛んでくる。
(ハリボテの象なども)
(福引の文字の書かれた提灯様のもの)
(楽団)
(ラッパに太鼓、「大売出し」の文字の染め抜かれた半被)
(丸く並んだ電球が光ったり消えたり)
(大福引の文字が点滅する)
縁日の目玉は福引だった。
(「大売出し」「福引」の幟が立ち並ぶ。露店も)
(一等副賞の文字)
(ザルに入った玉を引換券と交換する人々)
(鍋釜ヤカンなど、日用品が積まれている)
彼も賑やかな音楽に誘われるように、人混みのなかにいた。
福引の男「はい押さないで押さないで、籤はまだまだあるよ、一等賞もまだ出ていない!さあ引いた引いた!」
小使「おお、やった!一等だ!はははは。当たったぞ、一等だ!」
福引の男「(鐘を鳴らしながら)おめでとうございます!みごと一等賞大当たりでござい!」
福引の男「一等の賞品はこちら!絹の布団だよ!」
小使「あははは、こりゃあいい!一等賞だ!一等だ!あはははは」
(背中に負って歩き出す小使)
娘「まあお父さん、それはどうしたの?」
小使「当たったんだよ!一等賞だよ!」
娘「まあすごい!」
小使「お前の嫁入り道具にちょうどいいだろう?」
(衣装を着た踊り子、踊る)
小使「あははは、こいつは本当に目出度いことだ!」
(仰向けに寝ている踊り子)
これはーーいつもの光景。今日も、昨日も、おとといもーーまるでおんなじ、変わらぬやりとりが続く。一週間前も一ヶ月前も、半年前にも確かに見た景色ーー
小使「(あたりを窺いながら)お前……」
女「(目の前にぶら下げられたカギを不思議そうに見て)?」
小使「……お前……これが好きだったろう……?」
(ポケットから餡餅を取り出す)
(女、すぐに手を出して頰張る)
小使「まだあるぞーーどうだ、うまいか?」
(竹籠に食べ終えた食器が入れられる)
小使「そうか、うまいか」
医員「あれ、どこに行ったんだ?おーい」
小使「ああ……(女に食器を持たせる)はい……」
医員「何をやってるんだよ、食器が集まってるじゃないか」
小使「はい……(竹籠を持つ)」
(汚れた食器を洗っている)
小使「……お願いします。(お椀を落とす)あっ!」
(割れた食器)
小使「……どうもすみません」
また病人がーー運び込まれて来た。それもまたいつものーー見慣れた景色。
小使「(窓から見ている)……」
(仰向けになっている小使)
子供達「おーい!」
小使「……(身体を起こす)」
子供「おう、なんだい?」
子供達「あれやってくれよ!」
小使「……」
子供「あは、あはははは!こら!無礼者め!吾輩をなんと心得る!」
子供達「将軍!」
子供「あは、あはははは!まさに!吾輩は将軍閣下である」
まことに子供という者は正直な、正直すぎるものだ。
小使「……」
(ドアが開く)
小使「誰だいーー?」
(娘が立っている)
小使「……お前」
娘「……」
小使「どうしたんだ?」
(部屋に入って来て、腰を下ろす娘)
娘「……」
小使「(腰を下ろし)なあお前、どうかしたのか?」
娘「……先だっては……ごめんなさい」
小使「……そんなことは……構わんよ。(娘が右手の薬指の指輪を触っているのを見て)ご主人がどうかしたのか?」
娘「……」
(若い男が頭を抱えている)
娘「主人の会社が……」
小使「……」
(目を見開いている女)
(狂人Aの哄笑)
小使「……お前、別れた方がいいのじゃないか?」
娘「(驚いて立ち上がる)何をいうの?」
小使「お前が結婚したことすら、俺は聞いてなかったんだぞ。それが父親に対する態度なのか?」
(小使、娘の肩を抱く)
小使「なあ……別れてしまえ……また一緒に暮らそう。母さんもすぐに退院する……だからーーな?」
娘「ーーいいえ、いやです。私、あの人とは別れません!(小使の手を振りほどく)」
小使「お前……!」
娘「離して……離してください!(出て行く)」
小使「……おいっ!」
(誰もいない廊下)
それはーー白日夢であったのか。
(ドアを閉める)
娘が来たのは、あれは、いつのことだったか。
(ゆっくり腰を下ろす)
果たして自分はいつからここで働いているのか。
(病室の鉄格子)
小使「……」
(暗転)
(床に寝転がっている女)
(暗い川面)
女「……赤ん坊が……私の赤ん坊が……っ!(手を伸ばす)」
(病棟の廊下を歩いている医員)
夜の病棟。今夜もまた、彼はその部屋をーー二十五号室を訪れる。
(巡回している医員にくってかかる女患者)
小使「……おい、おい、起きろ!」
女「(起きる)」
小使「ここを出るぞ!」
女「ええっ?(後ずさる)本当に?(近寄る)でもーー(後ずさる)」
小使「(鍵を開ける)お前は狂ってなんかいない。帰るぞ」
女「帰る?帰るってどこに?ここが私の家です」
小使「声が大きいーーさあ、行くぞ」
女「行くってーーここには私の赤ん坊が」
小使「ここにはいない。もうどこにもいないんだよ、お前」
女「いやだ、いやだ、いやだ……(横になる)」
小使「……」
(仕事に出かけようとする小使の胸にすがって止めようとする女)
小使「おい、お前、俺が悪かった。だから帰ろう!さあーー(抱き起こす)」
(小使、女を無理矢理抱き起こして外を窺う)
それは、今まで誰も見たことがない、けれどずっと彼の脳裏にはあったいち場面であった。
(叫ぶ女患者)
(小使、女を連れて歩く)
(病棟の入り口から外へ)
小使「さあ、行くんだ!」
女「いやだ!いやだ!いやだ!」
(夜の木立)
女「ああっ!いやだ!怖い!いやだ!怖い!」
小使「おい、お前、大声を出してはいけない」
(犬の遠吠え)
(抵抗する女)
(仕方なく、入口のドアを閉める小使)
(床に倒れ込む女)
小使「おい、なぜだ?なぜそんなにーー」
女「(肩で息をしている)」
小使「おい、お前はな、狂ってなんかいないんだよ、だから、俺と一緒に帰るんだよ。おいーーお前、苦しいのか?(あたりを見回して、去る)ちょっと待っていろ」
(女、自分の部屋に戻る)
小使「おい、お前ーーどこに行ったんだ?」
(病室に横になっている女)
小使「お前ーー水を持って来たぞ。飲みなさい」
(小使、去る)
(廊下に鍵を落として)
医員「(それを拾って)これはーー?」
(自分の部屋に戻り、腰を下ろす小使)
今夜ーー女を連れて病院を抜け出すつもりだった。しかし、女のーー妻の激しい抵抗にあった……
小使「……」
娘「……」
小使「……」
娘「お父さん、なぜあのときーー」
小使「……」
娘「あのときーーお母さんをひとりにしたのです?」
(鉄格子が開く)
今夜ーーいつもとは違う彼の行動がーー病院全体に影響を与えつつあった。
小使「さあ、行くぞ」
(それをじっと見ている男患者たち)
小使「なんだーーお前たち?」
男患者たち「(にやり)」
小使「そこをどけ!」
男患者たち「いやだ!」
小使「どけっ!そこをどけ!(歩きながら)今度こそ……今度こそ」
(笑っている女患者たち)
小使「ええいーー何がおかしい!(振り返って)あっ!」
院長「いったい何をしているんだ!」
小使「それはーー」
院長「いい加減にしたまえ」
看護婦たち「(小使を取り囲む)落ち着いてください」
小使「いや、私はーー」
院長「君にはもうやめてもらおう」
(女、看護婦たちに連れて行かれる)
(笑う女患者)
小使「笑うな!笑うな!ーー?」
(女患者たちの間から顔を覗かせる女)
小使「お前……」
(男患者たち、近づいてくる)
小使「先生、こいつはーー妻は狂ってなどいません」
院長「何をいっとるんだ君は!(小使の襟を摑んで)出て行きたまえ!」
小使「……い、いやだ!(医員に殴りかかる)」
(病棟の騒ぎが大きくなる)
それは、はじめて見る景色。昨日も、おとといも、一週間前もひと月前も、半年前もーー誰一人見たことがない騒ぎ。
(摑み合ったまま倒れるふたり)
(小使、院長を押し退ける)
(笑う女患者たち)
(倒れる院長)
小使「(モップで殴りかかる)えいっ!」
(殴っている小使に近づいて行く男患者たち)
(小使、逃げる)
(男患者たちに捕まる小使)
誰もが今まで見たことのない顔をして、見たこともない行動をする。
(倒れる小使)
(笑う女患者)
それでも彼はーー妻を連れて行かんとする。
(踊り子が鉄格子から手を伸ばす)
(医員、看護婦たちがやって来る)
(小使、モップを使って抵抗する)
医員たち「やめなさい!落ち着いて!落ち着いて!」
小使「どけ!どけ!俺の邪魔をするな!ーーあっ!」
(娘が男患者たちに捕まっている)
娘「お父さん!」
小使「やめろ!娘に手を出すな!」
娘「お父さん!」
小使「おい!やめろ!お願いだ!やめてくれ!」
(病棟の廊下を、患者たち、看護婦たちがグルグル回り出す)
すべてがーーゆっくりと回り始める。それはーーその光景は、いつか、どこかでみたような記憶がある。そのような気がする。懐かしいような、寂しいような、そんな気持ちがしてならない。
(祭りの行列)
(小使、その行列を見ている)
(病棟の廊下を行列が通って行く)
小使「……」
(倒れている院長)
小使「……」
遠くからーー花嫁を乗せた車が走って来る。文金高島田の娘が、幸せそうな表情を浮かべて座っている。ーーけれど隣で笑っているのは、花婿だろうか。この病院でよく見かける狂人に似ているような気がする。そういえば俺は、花嫁の父でありながら、花婿の顔を一度もみたことがないではないか。
(鉄格子)
だが母親であるあの女は車に向かって手を振っている。娘は本当に幸せなのだろうか。俺が見たことのない男の嫁になって。妻はーー娘の結婚を止めようとしているらしい。それはーーダメだ。いくらおれの知らない男と結婚するといっても、娘がそれを幸せと思うのならば邪魔をすることはできない。しかし妻は俺のいうことをきかない。
(花婿の目を覆う娘)
仕方がないので、俺はこの拳をふるうのだ。ふるいたくはないのだが、ふるわないわけにはいかないから。
娘「お父さんやめて!」
小使「こうしなけりゃあわからんのだ!」
娘「お父さんやめて!」
小使「えいっ!えいっ!」
娘「お父さん!(取り縋る)」
小使「邪魔をするんじゃない!」
さあ、お前たちはふたりで新たな門出にむかいなさい。お父さんはこうしてお母さんを抑えているから。
花婿?「(険しい顔で見ている)さあ行くぞ」
さあ早く。早く行きなさい。これからお前たち二人の前には、さまざまな困難があるだろう。それでもお前たちふたりならば、きっとそれを克服して、乗り越えて行けるだろう。大丈夫。
(行く手に霊柩車がとまる)
(院長が霊柩車に乗り込む)
お前たちは偕老同穴の契りを結んだのだ。幸せになりなさい。幸せに……きっと幸せになるのだ。
(霊柩車、走って行く)
(車、走って行く)
嗚呼、とうとう行ってしまった。
(小使、頭を抱えている)
キリキリとーー頭が痛む。自分が今どこにいるのか、それまで何をしていたのか、まったくわからない。
(街の景色)
このようなことが、前にもあったような気がする。いや、初めてのような気もする。けれどーー刺すような痛みの向こうから、ある光明がさしてきた気持ちになる。これまでにない晴れ晴れとした爽快な気分の予兆。今まで重くのしかかってきた問題が一挙に解決に向かうような、兆し。
(小使は、能面をいくつも籠に入れて運んでいる)
小使「(笑っている)よきかな、よきかな」
(険しい表情の男患者たちに面を被せる)
そう、それで良い。お前たちも笑うことだ。笑えないのならば、これを被れば良いのだ。
(女患者たちのもとにも仮面を運ぶ)
さあ、慌てずとも数は揃っている。はははは。そう、よきかな、よきかな。
小使「ははははは」
(仮面を被ったまま踊る踊り子)
それもまた、いつか見た景色。綻びも落丁もない。
(お面を被った患者たち)
(自分も翁面を被る小使、女と仲良く肩を組む)
丁寧に綴じられた日々の記録がーー記憶が、笑い声とともに今日もまた捲られて行く。
(モップで廊下を掃除する小使)
彼はーー
(廊下を歩いて行く医員、看護婦)
(見送る小使)
彼はーー
(病棟の鉄格子を開けようとするがーー)
微かな戸惑いを感じながらーー
(医員たちが見ている前で踊っている踊り子)
この閉ざされた空間で、今日も生きて行く。
(廊下を歩く男患者たち)
狂人A「(ゆっくり頭を下げる)」
小使「……」
(小使、廊下を掃除を始める)
大正十五年衣笠貞之助監督「狂った一頁」、映画全巻の終わりであります。
台本作成に関して常に心の支えとなった書籍たち
(全部読んだ訳ではありません。為念)
「川端康成全集」川端康成(新潮社)
「精神病院の社会史」金川英雄(青弓社)
「西條八十童謡全集復刻版」西條八十(ほるぷ社)
「都立松沢病院の挑戦」斎藤正彦(岩波書店)
「呉秀三 その生涯と業績」岡田靖雄(思文閣出版)
「脳内異界美術誌」荒俣宏(KADOKAWA)
「脳病院をめぐる人びと」近藤祐(彩流社)
「松沢病院外史」金子嗣郎(日本評論社)
「私説松沢病院」岡田靖雄(岩崎学術出版社)
「化け損ねた狸」井上正夫(井上正夫生誕百年祭実行委員会)
