大正十四年朝日キネマ製作作品「きげき 虚栄は地獄」

監督 内田吐夢
撮影 長谷川清

春夫 ?
夏子 龍田静枝
高利貸 長谷川清

郊外の住宅街。ここに結婚したばかりの若夫婦がおりました。

春夫「(腕時計を見て)いけないっ!(去る)」

彼の名は青山春夫。(慌てて大きなビルディングに入って行く春夫)(暗転)彼の仕事場はーーとある大会社…ではなく、そのビルの入り口脇。春夫はシューシャイナーつまり靴磨き職人でありました。靴墨をたっぷり塗り、柔らかい綿百パーセントの布で丁寧に磨いて行く熟練の技ーー春夫はこれでなかなかの腕を持つ職人でありました。とはいえ……

春夫「毎度どうも……!」

(暗転)そんなしがない
Tビルデングの靴磨きも家庭にあるときは……
夕食後に夫婦ふたり、優雅に蓄音機で音楽を嗜む日々。
(暗転)
Tその日も春夫は相変わらず外交の腕を振って居りました。
(靴を磨いている春夫)軽快な手捌きで靴に再び輝きを取り戻すべく腕をふるう春夫。しかし、
T月にむら雲 花に嵐
とはよくいったものでーー
(春夫が働くビルにやって来る夏子)

夏子「……あら!」
春夫「(視線に気がついて)え?……あっ!」
夏子「あなた……」

それは、愛する妻夏子でありました。大会社でバリバリ働いているはずの夫が、こんなところで靴磨きをしているなんてーーあまりのことに、言葉を失う夏子。春夫も、慌てて人違いであるかのように取り繕いますがーー(立ち去る夏子)

春夫「夏子……!」
客「おい、もう出来たのかい?」
春夫「……」
客「なんだ、返事くらいしろっ!(金を投げつけて去る)」
春夫「……(腰を下ろす)夏子」

T彼は妻に秘密を知られて極端に世を儚んだ。社長秘書だという夏子に一目惚れした春夫は、大会社の若手重役として働いていると嘘をついてなんとか結婚まで漕ぎつけたもののーー今ついに彼の虚言はあっけなくバレてしまったのであります。

春夫「ええい、こうなったら……!」

(首をくくろうとする春夫)

春夫「(合掌しながら)えいっ!(枝が折れる)ーーえっ?なんだ!」

自ら命を絶つべくさまよう春夫。(荷車にぶつかる)

春夫「そうだ……(ロープを手にする)これを使おう」

(首にロープを巻いて横になる春夫)

男「さあーー次行くぞ」

(牛、歩き出す)(空の樽が転がる)

春夫「これもダメか……(去る)」

首を括って死ぬことは諦めた春夫。今度はーー(川に飛び込む)

春夫「あんなに浅いとは……俺はどうすればいいんだ」

(その顔の前にぬっと差し出された包丁)

春夫「おおっ!ーーこれは!」
強盗「おい!おとなしくしろ!」
春夫「(拝む)ーーああ!」
強盗「死にたくなかったら金を出せ!」
春夫「(包丁の刃に指を這わせ)いや、俺は死にたい!頼む、これでグサ〜っとやってくれ!さあ、早く!」
強盗「え、な、何だこいつ(逃げ出す)」
春夫「ーーえ?おい、待ってくれ!おーい!……ダメか(腰を下ろす)」

(暗転)夫の帰りをひとり待つ夏子。(暗転)そして
T夜は明けた。結局どうやっても死ぬことができず、野宿をした春夫。彼が死を決意したほどの問題は、まったく解決していないのでありました。
Tさて、一方秘書役さまの夏子令夫人は
(青バス車内)(乗客の切符を切る夏子)
T夏子は大会社の秘書役様と思いきや、秘書は秘書だが運転手の秘書役でした。
そこへやってきた春夫。青バスに目をやるとーー

春夫「そうだ!」

(車の前に身を投げ出す)(青バス、止まる)

春夫「どうして轢いてくれないんだ!」
夏子「(バスから降りて)あの、大丈夫ですか?」
春夫「大丈夫じゃ困るんだ……あっ!夏子!」
夏子「あ、あなた!(バスに逃げ込む)」
春夫「おい、待て、夏子!おい!」

(暗転)(青バスの車庫。並んでいる)(やってくる夏子)社長秘書などではなく、白襟嬢と呼ばれるバスの車掌であることがバレてしまった夏子。日頃の真面目な勤務態度が認められて、会社から臨時の賞与ーーいわゆるボーナスを貰ったものの、素直に喜ぶことは出ませんでした。

(給料袋)賞与 青山夏子

帰って春夫さんにあわせる顔がないーー
Tでも……行くところとてないので、彼女は家路についた。
(帰って来る夏子)(家の中、タバコを吹かせながら待つ春夫)

夏子「(玄関で逡巡する)」
春夫「そろそろ帰って来る頃だな」
夏子「(呼び鈴を鳴らす)」
T春夫「誰だ?」
夏子「あのーーTわたしでございます」
T春夫「ナニ、よくも図々しく帰って来たな!はいってみろ、承知しないぞ!」
夏子「……」

そこへやってきたのはーー
T誰でもあまり虫の好かない紳士
高利貸と執達吏

高利貸「やあ奥さん、ご主人はいらっしゃいますかな?」
夏子「……はい」
高利貸「うむーー(ドアを開けて)こんにちは」
春夫「勝手に開けやがったな。T入ってみろ、ただぁ置かないぞ!」
高利貸「ん、なんだ?入らせてもらうよ(中へ)」
春夫「ふざけやがって……よーし、見てろ(箒を手に取り待ち構えて)えいっ!」
高利貸「う、うーん……」
春夫「あっーーだ、大丈夫ですか!(湯呑みに水を注ぎ)ささ、しっかりしてください」
高利貸「……うーん」
春夫「いや、どうもすみません」
T高利貸「よくも殴ったな、今日は文句なしで貸した金を貰って行くよ。(懐から証文を出して)さあ、耳を揃えて返してもらおうか」
春夫「そんな……あの、どうか、もう少しだけ待っていただけませんか。後生ですから」
高利貸「いいや、何といわれてもダメですな。おい!」
執達吏「はい!失礼いたします(中へ)」
高利貸「ああ、どんどん差し押さえてしまえ」
執達吏「かしこまりました」
夏子「……(心配そう)」

執達吏が、慣れた手つきで家財に差し押さえの証書を貼って行くーー

春夫「あの……明日には少しお金が入るはずですので」
高利貸「ダメダメ。そんな口車には乗らないよ」
T春夫「どうぞ助けると思って今少し……」
夏子「……(懐の賞与に思い当たる)そうだわ(中へ)あの……これで足りますでしょうか?」
高利貸「どれどれーーああ、これで充分です」
夏子「そうですか」
高利貸「おい、差し押さえはなしだ」
執達吏「ーーええ、そうですか?ではーー」

かくして……断固拒絶した夏子に助けられた春夫ーーふたりの間には気まずい空気が流れておりました。お互い、何と声をかければよいのやら……
(夏子、立ち上がって去りかける)

T春夫「どこへ行くんだ?」
夏子「はいーーT行くところとてはございませんが、私は貴方をだまして居たんですもの」
春夫「お前だけじゃない。Tだましてたのは、両方だ。お前も私も両方悪いのだ」
夏子「……」
春夫「(夏子の肩を抱き)さ、ここへお座り。さっきはあんなことをいってすまなかった。ねえ夏子、Tお前が許してくれれば、私もお前を許してあげるよ」
夏子「あなた、本当ですか?」

ふたりの間のわだかまりは消えてーー
(暗転)
T如何なる職業も絶対神聖であることを悟った二人は、翌日から一切の虚偽虚栄を捨てて、勇ましくも彼らの天職に向かって猛進しました。
(翌日。一緒に家を出るふたり)

春夫「似合ってるじゃないか。さあ行こうか」

大正十四年内田吐夢監督「虚栄は地獄」、映画一巻の終わりであります。