「日米関係」とは何だったのか Part5 マイケル・シャラー著(2004年発行) | ウインのワクワク「LIFE」

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気にかかった文章】

 

第11章 アメリカ、日本、そしてヴェトナム戦争ー1964~1968年

日本は、アメリカが自由貿易政策を維持する限り、中国、沖縄、東南アジアのような問題について協力するだろうが~したがって日米の協力を確実にするためには、保護貿易主義的圧力に対する行政府「の断固たる抵抗」が必要である、というのであった。

 

 

通産省の役人は軍需を国民総生産と比較して、ヴェトナム戦争の影響をもっとも低く見積もった。朝鮮戦争の時の日本経済の規模は、ヴェトナム戦争時の六分の一にすぎなかったが軍事調達の総額は約18億ドル、最大時では日本の輸出総額の約60%にも達したが、ヴェトナム戦争の間は12%だったというのである。だが、計算結果がどうであろうと、ヴェトナム戦争は日本の経済成長の速度と方向に巨大な影響を及ぼしたのである。

 

 

1965年から1969年の間に日本の貿易黒字は、対米貿易だけで3億3400万ドルから約14億ドルに増大し、1968年にはアメリカの役人たちは、ヴェトナム戦争によって生まれた経済の力の関係の変動は危機的な幅に達したと思った。

 

 

彼(ジョンソン駐日大使)は、沖縄の日本返還に賛成していたが、それは一つには、日本政府に日本の外辺地域の防衛について考えさせるためであった。

 

 

アメリカが必要としているのは「沖縄での核の権利だが……日本側がそれをはっきりと認めることは難しい」~。

 

 

佐藤首相は返還後の軍事基地の地位については明言を避けた。1968年9月、国防総省が数十のアメリカ軍基地の日本への返還を申し出たとき、日本政府は尻込みした。おそらく自衛隊にはそれらを運営していくだけの予算がなかったのだろう。ジョンソン大統領が基地の受け取り拒否を公表して佐藤をこまらせるぞとおどして、ようやくこの問題は解決したのである

 

 

第12章 ニクソン・ショックと日米関係の変容

1967年の春、商務長官モーリス・スタンズは「日本人は現在もなお戦いつづけている。彼らが当面めざしているのは太平洋の支配であるが、その後はおそらく世界を支配しようとするだろう」と言明したという。

 

 

ニクソンは後に、1971年の「新経済政策」は一つには「日本人につけをまわす」ためだったと述べている。

 

 

1969年4月30日、ニクソンは~沖縄と日本本土に駐留しているアメリカ軍が極東地域の防衛行動をとることを日本政府が全般的に承認するならば、アメリカは沖縄を返還する~。

 

 

公式のコミュニケとは別に、佐藤首相は演説ージョンソンと相談の上用意されたーを行い~日本は台湾防衛のための(アメリカの)基地の使用に対して「肯定的態度」をとることを約束する、というのである。この確約は、法的な拘束力は持たないが、先の地域安全保障への関与の域を超えるものであった。

 

 

ニクソンによれば、アメリカの軍事力がアジアから撤退すれば、日本は「ソ連と肩を組むか、再軍備する」だろうが、それはいずれも中国から見れば、好ましくない選択肢である。ニクソンは、毛も周もちょっと説明すれば、「日本を抑えたいという中国の希望をもっともよく適えてくれるの」は、アメリカが今後も日本、韓国、東南アジアに軍事力を保持することだということに同意すると信じていた。

 

 

戦略家としてのニクソンは、政治家としてのニクソンとしてと同様に、中国接近策に利点を認めた。計画成功の最大の功を独り占めするため、彼は部下に、キッシンジャーを表に出さないように、キッシンジャーが北京から帰ってきたときも記者から遠ざけるようにと指示した。

 

 

ブランドン(ジャーナリスト)は彼ら(ニクソン、キッシンジャー)との会見に基いて書かれた本の中で次のように述べている。「日本政府が約束したにもかかわらず、繊維製品輸出の自主規制を実施しなかったことに腹を立てたニクソン氏は、彼の新中国政策について何のヒントもあたえないようにし、日本の首相佐藤にわざと恥をかかせた」。

 

 

中国との幅広い接触を望んでいた日本人の大部分は、ニクソンの計算ずくの侮辱に深く傷ついた。