「天皇家百五十年の戦い」~第三部 江崎道朗著 | ウインのワクワク「LIFE」

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気にかかった文章

両陛下は御自分で歌を詠まれ、それを自ら書かれ、遺族に渡された。細川発言や謝罪決議が政府で動いている最中に、である。政府や国会と全く違う動きをするというのは、恐ろしく勇気のいることだ。

 

この年(戦後五十年)、陛下は外国に行かず国内に留まるという積極的意志を発動させた。繰り返しになるが、陛下は、宮澤俊義教授の東大法学部が唱えたような「めくら判を押すロボット」ではないのだ。

 

われわれは沖縄を米軍に占領されて、お金を持っているのは米軍だけだった。米軍相手に物を売らなければお金が入らない状況だった。選択の余地がなかった。そういうわれわれのいわく言い難い気持ちを、本土が理解しているとはとても思えない。

 

日米安保や米軍基地が重要だとわかっていて、理屈では賛成している人間でも、「米軍基地出ていけ」と言わざるを得えなくなる。この屈折した感情を理解した方がいいと思うよ。

 

昭和六十二年の夏の定例会見の中で、こんなやり取りをされている。

記者 沖縄は歴史的にみて、琉球王朝時代をへて、日本の一部となったのは明治以降なので、皇室に対する関心が本土に比較して希薄なように思えますが、その点についてどうおもわれますが。

皇太子 そうは思いません》

 

民主主義には「今、生きている人にしか投票権がない」という最大の欠陥がある。

 

日本人だけがよく理解していないだけで、天皇皇后両陛下は今や世界の精神的リーダーと見なされているのだ。

 

御外遊は昭和二十八年三月から十月まで、英国を含めて欧米十四ヵ国に及んだ。~英国は日本との戦いで、アジアでの覇権の大半を失っていた。まだ戦争の記憶は生々しく、大手紙デイリー・エキスプレスの読者調査では歓迎反対論が六十八パーセントを占めていた。

 

オランダ語訪問中には天皇皇后両陛下のお車に魔法瓶が投げつけられたり~。

 

大喪の礼のときはオランダ国内の反対論が強かったためにベアトリス女王が訪日できなかったほどだ。

 

平成への御代替わりで天皇陛下が採られたのは、昭和と平成とを切り離してヴァイツゼッカーのように偽善的に歴史を回避する道ではなく、昭和天皇の御心と御事績を引き継ぐ道であった。

 

(オランダ訪問において)戦歿者慰霊碑に黙祷して哀悼の意を表し、抑留経験者の心の痛みを受け止めて話を聞かれるーこうした両陛下の行動は、政府がいわゆる東京裁判史観に安易に迎合した「謝罪外交」とは全く違う。

 

決して相手国を一枚岩では御覧になられない。

 

(昭和天皇は)アメリカの対日強硬論を耳にされていた一方で、アメリカ内部が日本への憎悪一辺倒の一枚岩ではないことも把握されていた。

 

明治以降の日本のエリートは日本の歴史・文化・伝統を否定することが日本を守ることであると思い込み、自分を見失っていた。だが陛下のお言葉はそれとは対照的に、礼儀正しい中にも日本の歴史と文化の素晴らしさを堂々と伝えるものだ。

 

日本を守るためには軍事力や経済力だけではなく、「相互理解」の実を上げて他国から尊敬と信頼を得るというソフト・パワーも欠かすことはできない。~こうした陛下の「相互理解」によって~。

 

国際社会は、こうした苦闘を続けてこられた天皇陛下を日本の代表、元首だと見なしている。だが日本政府だけは、宮澤憲法学と内閣法制局という官僚風情に呪縛されて、相変わらず「政府のロボット」説にこだわり、天皇陛下が日本の代表かどうかも曖昧にしたままだ。

 

皇室の価値を理解できない日本政府をいただく悲劇を乗り越えることができる日はいつのことだろうか。

 

現行憲法下で初めて皇位を継承された天皇陛下は、歴代天皇の歴史や憲法などを研究されながら、「日本国統合の象徴」たる天皇は何をすべきなのか、懸命に模索してこられた。

 

国民統合の象徴が成立つためには、天皇陛下の努力だけでなく、国民の側が象徴としての天皇に対する「理解」が必要だと指摘されていらっしゃるのだ。

 

昭和天皇の御喪儀と天皇陛下の皇位継承儀式について定めた旧皇室典範が廃止されてしまっていたことから、内閣法制局やサヨクの憲法学者たちが、伝統に基づいて喪儀や皇位継承儀式をすることは「違憲だ」と騒いだ。

 

内閣法制局の一方的な解釈の下で、宮中祭祀を含む皇室の伝統は軽視され排除され、昭和天皇もご苦労をされてきたが、こうした問題点を放置したことになるからだ。

 

昭和六十一年五月二十六日、当時皇太子だった天皇陛下も読売新聞への文書回答で「後奈良天皇」について言及されている。後奈良天皇もまた、ときの政府の理解のなさにに苦しみながらも、ひたすら国民の安寧を祈念された方であった。繰り返すが、天皇陛下が後奈良天皇に言及された昭和六十一年当時は、内閣法制局長官が「大嘗祭は国の行事としては行えない」と明言した時期だ。