今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その8)として、「国史編纂編」をお話しします。下記、から項目のうちの⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)から⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)までののお話しとなります。

①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)
②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)
③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)
④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)
⑤中臣鎌足(翹岐)の死(669年)と天智天皇(豊璋)の死(671年)
⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)
⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)
⑧天武天皇の死、天武天皇の皇后が持統天皇として即位(686年)
⑨持統天皇が藤原不比等(32歳)を異例の抜擢、不比等が正史に初登場(689年)
⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)



前回のこのシリーズのブログ記事で、「壬申の乱」での天武天皇の奮闘により、一度は日本(倭)国の統治を日本(倭)人の手に取り戻した過程についてお話ししました。
今回は、天武天皇の死後、日本が、藤原不比等を始めとする百済王族の勢力に、完全に乗っ取られ、支配されることになってしまった、「日本書紀」が完成する720年までの経過についてお話しします。

⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)
天武天皇の業績として主なものは、以下のものが挙げられると思います。
・新京の構想:それまでに無い広大な都の構想、後に藤原京として実現化
・律令の整備:「律」は刑罰について、「令」は行政の規則を定めたものを整備
・国史編纂 :当初は一本化された史書を構想していたが、712年に古事記、720年に日本書紀として完成

681年に天武天皇の指示により国史編纂が開始されたことは、史実として有名ですが、新京の構想、律令の整備に関しては、余り知られていません。

・新京の構想に関しては、天武天皇が自ら新京を企画立案し、天武天皇の在位期間中の684年には実際に建設に着手しており、これが後の藤原京となりました。藤原京は持統天皇の時代に完成し、694年に遷都しますが、残念なことに藤原京は、僅か16年で廃都となります。
理由として、都の中の藤原氏の屋敷が広大すぎて、空虚な空間が多く、都全体が大きくなり過ぎたことが原因と考えられます。

・律令の整備に関しては、以下の通りです。
1.天智天皇の近江朝時代から、主に天武天皇が律令の整備に参画
2.天武天皇の時代になり、律令の整備が本格的に始まる
3.持統天皇の時代に整備を継続
4.文武天皇の時代、701年に律令の整備は完了

以上の新京の構想や、律令の整備に関して、天武天皇の関与がほとんど知られていないのは、天武天皇の功績を無かったことにしようとする、藤原不比等の隠蔽によるもです。

天武天皇の「新京の企画立案」や「律令の整備」等に関して、主に神谷政行さんのサイトを参考にさせて頂きました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/index.htm


続きまして、国史編纂の経緯と、国史編纂に関連する大和政権内の動向についてお話ししていきます。⑧~⑩をまとめて年代順にお話し致します。

⑧天武天皇の死、天武天皇の皇后が持統天皇として即位(686年)
⑨持統天皇が藤原不比等(32歳)を異例の抜擢、不比等が正史に初登場(689年)
⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)

国史編纂の経緯をお話しするにあたり、前提知識として、知っておいていただきたい事は以下の通りです。
日本書紀に記されている、「天智天皇」が百済王族の「豊璋」であり、「中臣鎌足」が百済王族の「翹岐(ぎょうき)」であったということを、改めてご確認ください。
「持統天皇」は「天智天皇」の娘ですので、百済王族の血筋です。
「藤原不比等」は「中臣鎌足」の子ですので、百済王族の血筋です。

以上の内容に関しては、本ブログの【11話】飛鳥時代編【12話】天武天皇編に細かく経緯を解説しています。
 

 

下に歴代天皇の一覧表があります。適宜参照してください
第42代「文武天皇」は、持統天皇の子である「草壁皇子」と、「天智天皇」の娘である第43代「元明天皇」の子ですから、ほぼ百済王族の血筋ということになります。

第43代「元明天皇」は「天智天皇」の娘ですから、やはり百済王族の血筋です。

第44代「元正天皇」は、第43代「元明天皇」と「草壁皇子」の娘ですので、ほぼ百済王族の血筋です。

第45代「聖武天皇」は、第42代「文武天皇」と「藤原宮子」の子ですので、百済王族の血筋です。

天皇家は、持統天皇以降、百済王族の血筋の者を天皇にしています。しかも、彼らはそのことを充分認識した上で、綿々と百済王族の「血筋」と「自覚」を受け継ぎ、今日に至っている、と私は考えています。

 

【国史編纂の経過と藤原不比等の動静】
以下の年表に、天武天皇の意向による国史編纂に関連する、主な出来事を年代順に列記しました。
 

 

上記の、国史編纂に関連する主な出来事のうち、主に、藤原不比等の動静についてお話しします。

672年、藤原不比等は「壬申の乱」で、どちらにも加担することが無く、賞罰無しとして放免されます。

681年に天武天皇が国史編纂を命じた頃、藤原不比等は、天武天皇の夫人と密通し子を産ませ、それが明らかになると、姿を消しました。
密通した天武天皇夫人は中臣鎌足(翹岐:ぎょうき)の娘で、異母兄弟に当たります。天武天皇の死後、藤原不比等は、この天武天皇夫人を妻としています。百済王族が血筋に、非常にこだわっていることが解る一件です。

686年に天武天皇が亡くなると、国史編纂は一旦、中断してしまいます。

689年、藤原不比等は持統天皇に異例の抜擢をされます。藤原不比等はこの時、突然歴史の表舞台に躍り出てきます。
この二人は同じ百済王族の血筋の者として、密接に連絡を取り合っていたことは間違いありません。

691年、持統天皇により、国史編纂の再開が指示されるものの、進捗は全く不明です。
これは推測ですが、藤原不比等はこの時期に、ある程度出来上がっている国史を密かに改ざんさせていたものと思われます。

711年3月、藤原不比等は右大臣となります。この当時は左大臣の方が右大臣よりも上位でしたが、元明天皇により、左大臣が左遷させられており、藤原不比等が実質的な最高権力者となっていました。元明天皇も百済王族の仲間です。

711年4月、元明天皇が、国史編纂の完成を指示します。勿論、元明天皇に、そう言わせたのは藤原不比等であると、私は考えています。
この時点で国史編纂の完成を指示した理由として、以下が考えられます。
・国史編纂をいつまでも長引かせることは出来なかった
・藤原不比等が最高権力者となったことで、ねつ造された国史を発表しても、反対意見を弾圧できる
・藤原不比等の存命中に国史編纂を完了させたい
・藤原不比等による国史の改ざんも、ある程度は完成していた

712年、こうして発表された国史が「古事記」でした。
ところが、出来上がった古事記は、第24代仁賢(にんけん)天皇から第33代推古(すいこ)天皇までは、ごく簡略な、系譜に関する記述程度しかありませんでした。
その上、天武天皇の父である、629年即位の第34代舒明(じょめい)天皇以降の歴史は全く記述されていませんでした。
「古事記」の記述内容が、何故そうなってしまったのか、未だに明快な理由を示せる人はいません。

「古事記」の記述内容が、上記のような内容になってしまった理由を、単純に推測すると、以下のようになるのかも知れません。
・第24代仁賢(にんけん)天皇以降から第33代推古(すいこ)天皇まで、ねつ造を加える必要性があったものの、まだ出来上がっていなかった。しかし、この部分を全て削除するわけにもいかず、簡略化した内容を記載した
・629年即位の第34代舒明(じょめい)天皇以降の時代の歴史は、大がかりなねつ造が必要なため、まだ完成していなかった。そこで、古事記からはこの部分は削除し、後の日本書紀に記載することとした

以上のように、国史全体としては未完成の状態であったと思われます。しかし、何らかの形で、国史を出さざるを得ない状況であったため、とりあえず「古事記」として発表したのではないでしょうか。
後に発表する、正式な国史の内容を改ざんする時間稼ぎのために、「古事記」を発表したという側面もあるかも知れません。

8年後の720年5月に「日本書紀」が発表されます。その3ヵ月後に藤原不比等は病死します。藤原不比等は命が続く、ぎりぎりまで、国史改ざんの詰めの作業を行っていたような印象を、私は受けます。

「古事記」の編纂完了から「日本書紀」が発表されるまでの8年間で、以下のねつ造を加えて、正史は作り上げられたと思われます。
・第24代仁賢(にんけん)天皇から第33代推古(すいこ)天皇までの歴史をねつ造
・629年即位の第34代舒明(じょめい)天皇から、当時の直近である持統天皇時代までの歴史を大規模にねつ造

「日本書紀」のうち、天智紀(天智天皇の巻の記述)は不備が多い事で知られています。重複した記述や、整合性の取れていない記述などが多く、中には、明らかに編集担当者が解った上で、記述の誤りを放置しているとみられる箇所もあると言われます。
どうしてそのように不備が多いのかを、説明できる人はいません。

しかし、私からすれば、説明の必要も無いくらい、当たり前の話だと思います。
第34代舒明(じょめい)天皇の子として、実際に存在した中大兄皇子に、舒明天皇時代から宮中内に滞在していた、中大兄皇子より10歳以上も年上であると推定される百済王族の豊璋を重ね合わせ、豊璋のやったことを中大兄皇子がしたこととするわけですから、完璧に整合性を合わせることは無理だったのだと思います。

以上、「日本書紀」が、いかに改ざんされてきたかを見てきたわけですが、私は「日本書紀」には、真実の記述も多く存在していると思っています。
「日本書紀」は、天武天皇が国史編纂を命じてから編纂が開始され、ある程度は出来上がっていたのだと思います。
それを後から、あちらこちらを修正や削除、加筆したのです。全てが、ねつ造されたものでは無く、真実も多く含まれている、と私は考えています。
「日本書紀」を読む時は、どれが真実で、どれが嘘なのかを考えながら読むことで、解ってくることが、とても多いと思います。


【持統天皇の動静】
次に、再揭の下記年表の時期での、持統天皇の動静についてお話しします。

 

上記年表にあります、686年10月2日の出来事をご覧ください。大津皇子が謀反を企てたとして、持統天皇により処刑された事件です。
この事件は、持統天皇の残忍な性格を、よく表していると、私は思っています。
同時にこの事件の詳細を知ることで、「日本書紀」が発表された720年から僅か34年前の史実の記述すら、相当なねつ造と隠蔽があることを確認出来ました。


[大津皇子の処刑事件]
大津皇子の処刑事件についての詳細を以下にお話しします。
大津皇子の処刑事件を考察するに当たり、「吉野会盟」という出来事からご説明していきます。
「吉野会盟」とは、679年に天武天皇と皇后(後の持統天皇)、皇子6名が吉野に集い、盟約を結んだ会合ようなものでした。
盟約の内容は、おおよそ以下の3点だったようです。
1.1000年の後まで続く、争いのない国を構築すること
2.その為に、吉野に集う8人を主体として連携していくこと
3.その目的のため、同じ兄弟であろうとも序列を定め指示命令系統を明確にすること

以上の内容で、天武天皇と皇后(後の持統天皇)、皇子6名で盟約を結び誓い合いました。
そして、皇子の序列は
1草壁皇子
2大津皇子
3高市皇子
とされました。(他の皇子の序列は省略します)

上記の序列をご説明します。まず、皇太子となった草壁皇子は持統天皇の子です。そして、序列2位の大津皇子は、持統天皇の同母姉の大田皇女の子です。下図を参照してください。
大田皇女は、天武天皇の正妻でしたが、若くして亡くなっています。そのため、「吉野会盟」の時は、持統天皇が正妻(皇后)でした。
大津皇子の序列が、草壁皇子より下なのは、年齢によるものとされています。
また、序列3位の高市皇子は、年長と見られていますが、母親の血筋の問題で序列3位となったとされています。
 

 

以下が皇子の序列です。
1草壁皇子
2大津皇子
3高市皇子
皇子の序列を見ますと、686年10月2日の出来事は、大津皇子が謀反を企て、持統天皇に処刑されたという、ありがちな事件のように見えるかも知れません。
つまり、天武天皇の死後、皇位を簒奪しようと、大津皇子が謀反を起こした事件という見方です。

ところが、当時から現在にいたるまでのほとんど全ての歴史家が、口をそろえて以下のように、この事件を評価しています。
「大津皇子に謀反を起こす兆候は全く見られず、686年10月2日の事件は持統天皇の独断専行の暴走的行為だった。」
しかも、この事件の後、草壁皇子は皇位につかないまま、3年後の689年に亡くなっています。

この事件は起きた当初から、相当に物議をかもした陰惨な事件であったことは間違いありません。持統天皇と、後に権力者となった藤原不比等が、いかに言論を弾圧しようとも、隠蔽しきれない程の大きな闇があったものと、私は考えています。

私が推測した、この事件の真相は以下の通りです。
1 草壁皇子は実は672年生まれで、679年吉野会盟のとき8歳だったと考えられます。一方の大津皇子は663年生まれで、679年吉野会盟のとき17歳でした。
つまり、吉野会盟のとき、皇太子だったのは大津皇子です。

2 686年9月9日、天武天皇が亡くなると、翌月2日に、持統天皇は大津皇子を殺害します。この時、草壁皇子は15歳、大津皇子は24歳でした。皇太子は大津皇子でした。
要するに、持統天皇は単なる皇位簒奪者に過ぎなかったのです。

3 草壁皇子は妻の元明天皇との間に、680年生まれの元正天皇、683年生まれの文武天皇をもうけたとされていますが、実際には、文武天皇は688年頃に生まれ、元正天皇は689年頃に生まれたものと、私は推測しています。
文武天皇は697年に15歳で皇位についたとされていますが、実際は10歳くらいで皇位についたと推測されます。
元正天皇は715年に36歳で皇位についたとされていますが、実際は27歳くらいで皇位についたと推測されます。

[上記経緯1の草壁皇子の生まれ年についての解説]
日本書紀において、草壁皇子は662年に北九州で生まれたことになっています。
しかし、草壁皇子が662年に生まれたとは考えにくいという歴史研究家も間々いらっしゃいます。
理由として、661年の当時、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ:後の持統天皇)が、大海人皇子に付き従って北九州に行っていなかったと思われる点を挙げています。

一方、672年の「壬申の乱」の時に、吉野から不破道(関ヶ原)に向かう大海人皇子に付き従った鸕野讃良皇女(持統天皇)の、その途上での様子から、鸕野讃良皇女(持統天皇)が、妊娠していたと推定されている歴史研究家の方がいらっしゃいます。
この方は医師でもありますので、信憑性の高い推定だと思います。

また、吉野から不破道(関ヶ原)に向かう途上での、鸕野讃良皇女(持統天皇)の様子とは、「日本書紀」の以下の記述です。
・疲労からとされる輿での移動
・家をまるまる潰してまでの暖をとる、たき火の模様
・度重なる休息

また、大津皇子の殺害事件の後、草壁皇子は皇位につかないまま、3年後の689年に亡くなっています。事件の時、「日本書紀」の記述通りに草壁皇子が皇太子であり、25歳になっていたのなら、速やかに皇位についていたものと思います。

以上のように考えますと、草壁皇子が672年生まれと推測することは、それ程奇想天外なことでも無いと、私は思っています。

[上記経緯2の天武天皇の死後、直ちに、持統天皇は大津皇子を殺害したことについての解説]
もしも、草壁皇子が皇太子であったのなら、いきなり大津皇子を殺す必要は何処にも無かったと思います。
持統天皇にとって、大津皇子が目障りで邪魔な存在であったとしても、まずは、草壁皇子を天皇に即位させ、その後に、時期を見計らって大津皇子を処分すれば良かったはずです。
天武天皇が亡くなって一ヶ月と経たないうちに、強引に大津皇子を殺害するような無謀なことをしたこと自体が、大津皇子が皇太子であったことを示す証拠であると思います。

また、異常とも言える持統天皇のこの残虐な行為から、持統天皇が悪神崇拝者であるのは、ほぼ間違い無いと、私は感じています。

[上記経緯3の元正天皇と文武天皇の年齢詐称についての解説]
草壁皇子と妻の元明天皇との間に生まれた元正天皇と文武天皇の年齢が
元正天皇680年生まれ→実際は689年頃の生まれ
文武天皇683年生まれ→実際は688年頃の生まれ
以上の年齢詐称は797年に「続日本紀」が発表される時に公にされたものと考えられます。
この程度の改ざんは、「日本書紀」では当たり前のように行われていたわけですから、「続日本紀」で行われても不思議では無いと思います。
それどころか、元正天皇と文武天皇が、実は草壁皇子の子ではなかった可能性すら、あり得ると私は考えています。

また、何の証拠もないのですが、持統天皇や藤原不比等は、草壁皇子の血筋はその後の天皇家に受け継がせないようにした可能性があると、私は思っています。と言うのも、草壁皇子は天武天皇の子だからです。
悪神や悪神崇拝者は、そこまで血筋にこだわるものと、私は考えています。

さらに、草壁皇子が大津皇子殺害事件の3年後に、推定年齢18歳の若さで亡くなりました。これも、持統天皇が「手にかけた」ものなのかも知れないと、私は考えています。あくまで可能性ではありますが。
悪神や悪神崇拝者には、親子の情などというものは存在しないと、私は認識しています。
以上、持統天皇による大津皇子殺害事件の真相を見てきました。

最後に、持統天皇による天武天皇の毒殺について、お話しします。
一部の歴史研究家に指摘されている、持統天皇による天武天皇の毒殺説について解説します。

【持統天皇が天武天皇を毒殺した理由】
持統天皇が天武天皇を毒殺する動機は以下が考えられます。
1皇位を簒奪し、百済王族による日本支配を実現するため
2天武天皇の手による国史編纂を阻止するため

1の「皇位を簒奪し、百済王族による日本支配を実現するため」、とするのは文字通りの意味となります。こちらは説明は不要かと思います。

2の「天武天皇の手による国史編纂を阻止するため」について解説します。

天武天皇の指示により編纂していた国史には、「豊璋」と「翹岐(ぎょうき)」が、645年の「乙巳の変」から672年の「壬申の乱」頃までに、散々してきた悪行の数々が全て記されていたはずです。
その様な国史を発表されてしまったら、以後、百済王族が日本を支配することが難しくなったと思われます。
ですから、天武天皇の手による国史編纂は、百済王族たちにしてみれば、何としても、阻止しなければならなかったのです。

【持統天皇が天武天皇を毒殺したとする根拠】
持統天皇が、天武天皇を毒殺したとする根拠についてお話しします。
「日本書紀」には、天武天皇が病死したことが記されています。そして、病気の経過について詳しく書かれています。

685年9月24日、発病。
とあります。続いて細かく病状などが、経過を追って記されています。そして、次の記述です。

686年1月16日、「この頃わが体が臭くなった。願わくば仏の威光で身体が安らかになりたい。それ故、仏に誓願してほしい」と天武天皇が言われたとあります。

この、「体が臭くなった」と言う部分ですが、これは、水銀中毒の典型的な症状です。しかも、液体状の水銀を飲んだと言うよりも、おそらく水銀を熱して揮発させたものを吸ったような症状ではないか思われます。
当時は、金メッキの加工時に、水銀と金を混ぜて加熱する時に、このような水銀中毒が度々起こっていたそうです。

686年9月9日に天武天皇は亡くなります。

これらの天武天皇の一連の病気経過が細かく書かれているいるのは、やはり後世に真実を伝えるために、「日本書紀」の編纂担当者が残しておいてくれた手掛かりだと、私は思います。

後の時代になって、実は天武天皇は不老長寿の仙薬を服用していたと言う、まことしやかな話が流布されているようです。
しかし、天武天皇が病気を発症したのは突然のことであり、発症から僅か約4ヵ月後に、「体が臭くなる」という、かなり症状が悪化した状態になっています。仙薬として何かしら服用していたとしても、体調が悪くなれば、それ以上に服用する事は無かったでしょう。
天武天皇は発症から1年後に亡くなっています。最後まで、水銀毒を盛られた続けたのではないでしょうか。
私は、毒殺と判断するのが妥当と考えます。

また、持統天皇が、藤原不比等と緊密に連絡を取っていたことは、間違い無いと思います。藤原不比等との打ち合わせ通り、持統天皇が毒殺を実行したのではないでしょうか。
天武天皇を毒殺できる者は、他にはいなかったと思います。


【次回】
次回は第【19話】として、「天武天皇と徳川家康」についてお話しいたします。天武天皇と徳川家康には、不思議な共通点が多いと、私は思っています。
最大の共通点は、どちらも、悪神(悪魔)の日本支配を排除している点です。
天武天皇は、悪神の支配を排除した後、永く平和を維持することが出来ませんでしたが、徳川家康はそれを実現しました。大きな相違点はそこだと思います。

また、天武天皇と徳川家康の意外な共通点として、どちらも、太陽と富士山を関連付けて、神様をお祀りし、きちんと聖域を設けられていたという点が挙げられます。
天武天皇と徳川家康は、どちらも日本の神様のような魂を持った方だったと私は思っています。

神とか悪神の存在を信じられない方には、理解しがたい話かと思いますが、これからの時代は、きっと天武天皇や徳川家康は、日本の神様として見直される時が来ると、私は考えています。
そして、ヤマト国の女王ヒミコや聖徳太子も同じように、日本の神様として見直される時が、近い将来に来るものと思います。
これらの方々は、悪神によって隠され封印された、日本の神々だと、私は考えています。

次回は、これら、天武天皇と徳川家康の共通点をお話しすると伴に、悪神によって隠された事実について、お話ししたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。