前回の「日本人の歴史-財務省の系譜その1」の続きになります。

「財務省の系譜」とは、以下のような意味合いになります。
・どのような素性の人たちが、現在の財務省の主流派となっているのか
・それら財務省の主流派の人々は、過去からどのような経緯で現在に至っているのか

上記のような「財務省の主流派」、もしくは「上級国民」、「支配者層」などと呼ばれる人々の多くが、「百済王族=藤原氏=李家」の血筋の人々である、ということを、前回にお話ししました。

そして、それらの人々、
1.百済王族はどのようにして日本に入り込んだのか
2.百済王族はどのようにして日本を乗っ取ったのか
3.百済王族はどのような経緯を経て現在に至っているのか

について歴史的な観点からお話しすすることになっていました。

前回「日本人の歴史-財務省の系譜その1」では、弥生時代から始まっていた百済王族の日本侵略が、古墳時代を通して続いていたことについてお話ししました。
このお話の内容は、「1.百済王族はどのようにして日本に入り込んだのか」に当たります。
今回のお話の内容は、「2.百済王族はどのようにして日本を乗っ取ったのか」になります。

以下は、日本の時代区分です。必要に応じて参照してください。

 

2.百済王族はどのようにして日本を乗っ取ったのか
今回のお話しは、百済王族が日本を乗っ取る過程のお話として、飛鳥時代が始まる頃から奈良時代初期にかけてのお話となります。
下の年表を適宜参照してください。

 

【聖徳太子は天皇(大王)だった】
西暦607年に聖徳太子が随の煬帝へ、「日出ずる処の天子」で始まる親書を送り、随の煬帝を激怒させたことは有名な話です。
これは聖徳太子によって派遣された、2回目の遣隋使派遣の時に起きたことでした。
ところが、随の煬帝を激怒させた出来事の裏には、日本の歴史書には全く取り上げられない「事情」がありました。

遣隋使は西暦607年の派遣前に、1回目の遣隋使が西暦600年に派遣されています。このことは、日本書紀には記されていませんが、中国の史書「隋書」には記されています。
1回目の遣隋使派遣の時、聖徳太子は「煬帝」の前帝である「文帝」と親書のやり取りを交わしており、ある程度意思の疎通がとれていました。
そして、2回目の親書の時に、隋の皇帝が代替わりしていることを知らずに、自己紹介無しの、親しみを込めた親書を送ったのです。このことを非礼であるとして、暴君で有名な随の煬帝が激怒したというのが真相です。
上記のような経緯は闇側(日本の支配層側=百済王族)によって、以下の理由から、意図的に隠蔽されていると、私は考えています。

中国の史書「隋書」の記述では、1回目の遣隋使派遣(西暦600年)において、日本(倭)の遣隋使は、次のように発言していました。
「親書の送り主は日本(倭)の「大王」で、「天から降りてきた男」である」

日本書紀では、推古天皇(大王)は592年に即位してから629年まで、37年間在位したことになっています。
ところが「隋書」の記述から、西暦600年の時点で、日本(倭)の天皇(大王)が推古天皇(女)では無く、聖徳太子(男)だったことが解ります。


「日本書紀」と中国の史書「隋書」に記された、日本(倭)の天皇(大王)に関する歴史的事実が矛盾しています。
私は、以下の3つの理由から「日本書紀」の方に、偽りが記されていると推定しています。
・中国側に嘘をつく理由が見当たらない
・中国の史書は全般に、正確な事実が記されていることが多い
・日本書紀は藤原不比等により様々な隠蔽、改ざんが行われている(理由は後にお話しします)

結局、西暦600年時点の日本(倭)の天皇(大王)が男であったことを隠蔽するため、「日本書紀」を始めとする日本の歴史上では、1回目の遣隋使派遣を無かったことにした、と判断するのが妥当です。

では次に、何故、日本書紀は聖徳太子が日本(倭)の天皇(大王)であった事実を隠蔽したのでしょうか。以下、お話ししていきます。

【聖徳太子は百済王族と戦っていた】
歴史上、藤原不比等とその子である藤原4兄弟を始めとする藤原氏は、聖徳太子をひどく憎むと同時に、異常なまでに聖徳太子の祟りを恐れていました。
以下の動画を見て頂くと、藤原氏が聖徳太子を如何に恐れていたかが解ります。時間のある方は視聴してみてください。

 

 

動画は、現在の奈良にある法隆寺(五重塔や金堂など)の敷地は、法隆寺以前には、「斑鳩宮(いかるがのみや)」と呼ばれる宮と、その周辺の居住区の敷地だった、という話から始まります。
「斑鳩宮(いかるがのみや)」は過去に一度焼失します。その後100年以上経ってから「法隆寺」として再建されたのでした。動画の概要は以下の通りです。

1.601年、聖徳太子(天皇)は、自身の一族が住むための「斑鳩宮(いかるがのみや)」の造営を開始します。「斑鳩宮」は、現在の法隆寺(五重塔や金堂など)の敷地を含む、その周辺地域一帯に造営された居住区でした。
605年、「斑鳩宮」の造営が完了し、聖徳太子一族が移り住みます。

2.643年聖徳太子の子である山背大兄王一族が皆殺しされる。
聖徳太子の死後、日本書紀に「643年、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、蘇我入鹿に「斑鳩宮」で急襲され自殺した」と記されています。

現在では史実として以下のことが解っています。
・乳飲み子を含む山背大兄王一族が皆殺しにされたこと
・「斑鳩宮」は火をつけられ焼失したこと
・聖徳太子の血統が途絶えたこと

3.奈良時代(729年~)になり、法隆寺再建の請願が出されていましたが、中々認められませんでした。ところが、この請願が734年に急遽認められ、国費で法隆寺が再建されることになります。
当時の国政の実権を握っていたのは藤原氏でした。法隆寺再建が認められた背景として、藤原不比等の子である4兄弟が、734年に流行った天然痘に感染し、次々と死亡したことが原因としてあったとされています。
つまり、藤原4兄弟の相次ぐ死を、「聖徳太子の祟り」と恐れた藤原氏が、急遽法隆寺の再建を認めたということです。
藤原氏が聖徳太子の祟りを恐れていたということは、当時(奈良時代)から広く知られていた史実です。

ここまでが動画の概要です。

上記の経緯を聞いて、「ふーん、そうなんだ」では済まないのがお分かりでしょうか。
上記の経緯では、なぜ藤原氏が聖徳太子を憎み、「聖徳太子の祟り」を異常なまでに恐れるのかが、さっぱり解らないのです。
日本書紀の記述では、聖徳太子の子である山背大兄王を自殺に追い込み、「斑鳩宮」を焼き払ったのは蘇我入鹿だったということになっています。
その蘇我入鹿を西暦645年に「乙巳の変」で惨殺したのは藤原不比等の父である中臣鎌足でした。
通説の日本史から判断すると、どちらかと言えば藤原氏は聖徳太子に感謝されることはあっても、恨まれる様な事はしていないはずです。

もうお分かりですね。「斑鳩宮」を襲撃して、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を殺害したのは、蘇我入鹿ではなく、百済王族(藤原氏)であったのです。
そう考えれば、話の辻褄が合い、藤原氏が「聖徳太子の祟り」を異常なまでに恐れたことが理解できるようになります。

ここで、更に推理を押し進めて考えみましょう。
なぜ、百済王族(藤原氏)たちは、聖徳太子の死後、聖徳太子の一族を皆殺しにし、「斑鳩宮」を焼き払うほど、聖徳太子を憎んだのでしょうか?
それは聖徳太子が、百済王族(藤原氏)たちの「日本の支配者になろうとする企て」を阻止したからに他ならないと、私は考えます。
この聖徳太子による百済王族(藤原氏)たちとの戦いは、実際の戦闘を伴ったものだったのか、法による取り締まりなどで厳しく処罰して排除していったものだったのか、詳細は解りませんが、おそらく百済王族(藤原氏)たちは「ぐうの音」も出ない程に徹底的に抑え込まれたのだと思います。

聖徳太子の時代に、本当はどのようなことが起こっていたのか、以下、考察したいと思います。
既に解った事実として、以下の3点を前提として推理します。
・聖徳太子は西暦600年時点で天皇(大王)だった
・聖徳太子は百済王族(藤原氏)たちと戦って勝利し、日本を救った
・聖徳太子の一族を皆殺しにし、「斑鳩宮」を焼き払ったのは百済王族(藤原氏)たちだった

以下の年表は、聖徳太子の登場から、山背大兄王(やましろのおおえのおう)が殺害されるまでの、飛鳥時代前半のものです。適宜参照してください。
年表左側は日本書紀に書かれた通説で、年表右側が、私が推定した実際の真相になります。
年表右側の私が推定した真相①~⑩について、以下に解説していきます。


①丁未(ていび)の乱
[通説]
飛鳥時代が始まる少し前に「丁未(ていび)の乱」、と呼ばれる紛争がありました。
崇仏派の蘇我氏(蘇我馬子)とそれに協力する聖徳太子が、排仏派の物部氏(物部守屋)とそれに協力する中臣氏(中臣勝海)と争ったという事件です。
聖徳太子は物部守屋と戦った時に、四天王像を彫り「勝利すれば四天王を安置する寺を建てる」と誓いを立てたとのことです。
日本書紀の記述では、聖徳太子は戦闘中に四天王の木像を彫ったということのようです???
この争いの結果、排仏派は敗れ、物部宗家の物部守屋一族が滅びます。

[真相]
日本書紀の記述では、聖徳太子が「丁未の乱」に参加し、戦闘の主要な役割を果たしたことになっています。
ところがこの時、聖徳太子は若干14歳でした。当時は「数え年」でしたので、今で言えば13歳になるかと思います。
13歳の聖徳太子が「丁未(ていび)の乱」の紛争に参加したとは、考えにくいと思います。

また、聖徳太子は西暦593年(聖徳太子20歳)に、日本最古の官寺・四天王寺を建立しますが、これは物部守屋を「鎮魂」または「祀る」ような意味合いがあったようです。物部守屋に勝利したからではありませんでした。その根拠を以下にご説明します。

下の写真は大阪府にある四天王寺金堂周辺のものです。
転法輪石の東(右方向)のライン上にある守屋祠が、春分・秋分に日が登るライン上に鎮座しています。
この手法は、天武天皇が伊勢神宮で使った手法や、徳川家康が江戸城で使った手法と同一のもので、神を祀るときに使う手法です。

注)天武天皇の伊勢神宮での神様の祀り方は本ブログ、以下のお話に載っています。
「【16話】伊勢神宮の秘密:2024/02/16」
注)徳川家康の江戸城での神様の祀り方は本ブログ、以下のお話に載っています。
「【20話】天武天皇と徳川家康 「悪魔との戦い」という類似性:2024/06/17」

話を「丁未の乱」の真相に戻します。日本書紀に記された「丁未の乱」の描写が稚拙で不自然です。このため、「丁未の乱」に記された内容の真実性が希薄に感じられます。
例えば、物部守屋は敵を迎え撃つに当たって、自ら榎(えのき)の木股に登り、敵を射たとあります。
最後には、敵に射落とされ絶命し、物部守屋軍は総崩れとなり敗北したとあります。
双方が軍勢で戦う場合、総大将が自ら木に登って矢を射るようなことは、普通はしないと思います。

以上の点から、日本書紀に記された「丁未の乱」は真実が隠蔽されていると考えられます。
実際は、百済王族(藤原氏)たちが、物部守屋を暗殺または、だまし討ちにした可能性が非常に高い、と推定します。

②崇峻天皇の暗殺
崇峻天皇(大王)の暗殺に関しても、日本書紀の記述には首をかしげたくなります。
日本書紀には、「蘇我馬子は崇峻天皇(大王)に嫌われていると思った。そのため暗殺者を送り込んで、崇峻天皇(大王)を弑(しい)したてまつった」とだけ記されています。
日本書紀の記述を見る限り、崇峻天皇(大王)の暗殺後、蘇我馬子も聖徳太子も、何事もなかったかのようにしています。
崇峻天皇(大王)は蘇我馬子の甥に当たります。また、崇峻天皇(大王)は聖徳太子の叔父に当たります。
崇峻天皇(大王)、蘇我馬子、聖徳太子、そして物部守屋を含め、この4者は近い血縁関係がありました。

これは私見ですが、当時の日本は穏やかで平和的な社会でした。近い血縁関係の間柄で、血で血を洗うような抗争をするというのは、あり得ないことです。
実際に血なまぐさい抗争事変を起こしているのは、ほとんど全てが百済王族(藤原氏)によるものだったと、私は考えています。

以上、日本書紀の不自然な記述などから考えて、崇峻天皇(大王)を暗殺したのは、百済王族(藤原氏)たちと考えて差し支えないと判断します。

 

③592年推古天皇(大王)即位
推古天皇(大王)は39歳で天皇(大王)に即位しています。この時、聖徳太子は19歳で摂政になったとされています。
当時の日本において、女性の天皇(大王)とはいえ、39歳の推古天皇(大王)に、若干19歳の聖徳太子を摂政にはしないと思います。
この当時の日本では、天皇(大王)となるには、どれほど優秀な人であっても、おおよそ22歳以上の年齢が必要、と言う共通認識があったようです。
ですから、聖徳太子は592年の時点で天皇(大王)もしくは摂政にもなれる可能性は低かったのではないかと思います。

しかしながら、593年には聖徳太子により官寺・四天王寺が建立されていますので、おそらく推古天皇(大王)即位時から、聖徳太子は国政の重要ポストに抜擢されていたと思われます。聖徳太子はそれ程、優秀な人だったのだと思います。
また、女性を天皇(大王)に据えたのは、百済王族(藤原氏)たちの思惑と考えるべきです。
つまり、女性を天皇(大王)とすることで、天皇(大王)としての指導力を低下させるのが、百済王族(藤原氏)たちの狙いであったと思います。

④聖徳太子の天皇(大王)即位
聖徳太子が何時、天皇(大王)に即位したのかは明確には解りません。しかし前述しましたように、1回目の遣隋使派遣(西暦600年)に聖徳太子は天皇(大王)になっていたので、その2~3年前程には即位していたものと思われます。
聖徳太子の動向として、
・600年に遣隋使派遣
・601年に斑鳩宮の造営に着手
・603~604年に冠位十二階と憲法十七条制定
など、国政に専念しています。
これは、百済王族との戦いに勝利し、平和になった世の中だからこそ出来たことだと思います。
2回目の遣隋使派遣(607年)の返礼に、中国から訪れた中国の使者が見た、日本(倭)国内の様子が「隋書」に記されています。
「厳格に法が定められており、とても治安が良く、犯罪を犯す者はいなかった」とあります。
聖徳太子により、善政が行われていたことを思わせる記述です。

⑤622年に聖徳太子死去
日本書紀の記述では、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)の皇位継承問題が発生するのは629年のことです。このことから、聖徳太子が死去したのは629年と考えられます。
日本の歴史において、聖徳太子を摂政のまま終わらせる為、推古天皇(大王)より先に聖徳太子が亡くなったことにされたと考えられます。

⑥山背大兄王、皇位継承者から外される
日本書紀の記述では、629年に推古天皇が亡くなり、皇位継承問題が発生、山背大兄王は蘇我蝦夷により皇位継承者から外された、とされています。
蘇我氏と山背大兄王には血縁関係がありますが、蘇我氏と次に天皇(大王)になる舒明天皇(大王)とは血縁関係がありません。
また、聖徳太子は629年に56歳で亡くなったと思われますが、この時まで、聖徳太子と蘇我氏とは良好な関係にあったと思われます。それが、聖徳太子が亡くなった途端に、何故、蘇我氏と聖徳太子の子である山背大兄王との関係がおかしくなるのか、私には全く理解出来ません。
このように考察してくると、蘇我蝦夷が山背大兄王を皇位継承者から外すというのは、非常に不自然に感じます。
むしろ、山背大兄王に皇位を継承させたくなかったのは、絶対的に百済王族(藤原氏)たちだったはずです。
これらのことを勘案すると、山背大兄王を皇位継承者から外したのは、百済王族(藤原氏)たちと考えるべきではないでしょうか。

⑦百済の義慈(ぎじ)王、王子「豊璋(ほうしょう)」を日本へ質として送る
629年に舒明天皇が即位した頃、百済の義慈(ぎじ)王は、王子の「豊璋(ほうしょう)」を日本へ質として送ったと、日本書紀に記されています。
その後、義慈王の弟の子である「翹岐(ぎょうき)」が日本にやってきます。「翹岐」は「豊璋」の従兄弟になります。
この「豊璋」と「翹岐」は日本の宮中内を自由に歩き回ることが出来たと、日本書紀に記されています。
当時の日本と百済の関係は、(隠蔽されているため)詳しくは解りませんが、同盟関係にあったようです。ただし、629年に舒明天皇(大王)が即位してから、日本は急速に百済に対して従属的な立場になっていったようです。
例えば、舒明天皇(大王)は百済宮(くだらのみや)という住まいを造営し、そこに移り住んでいます。
百済宮という名称の宮を、百済王族(藤原氏)たちに造営させられたのだと、私は考えています。

⑧641年皇極天皇(大王)即位
日本書紀の天武天皇の頃に登場する人物は、ほとんど全ての人の年齢が隠蔽されています。
そのため、舒明天皇(大王)や皇極天皇(大王)の年齢も不明です。
日本書紀、その他の資料を照合して、下表のような年齢一覧表を作成し、舒明天皇(大王)や皇極天皇(大王)の年齢推定をしました。
 

*注)天武天皇と天武天皇の関連する人々の年齢が不詳である理由につきましては、本ブログの「【12話】天武天皇編-不比等が作った幻想の国(その4):2023/09/20」に詳しく解説しております。興味のある方はそちらをご覧ください。

おそらく、舒明天皇(大王)は641年に亡くなったとき42歳ぐらい、皇極天皇はこの時33歳ぐらいと思われます(通説ではもっと年齢は上に推測されています)。

日本書紀には、舒明天皇(大王)が亡くなるまでの経緯が全く記されていません。
もしも、私の推定通りに舒明天皇(大王)が、42歳と言う若さで亡くなったのであれば、百済王族(藤原氏)によって殺された可能性が高いのではないかと思います。

一方の皇極天皇(大王)の即位は、女性であり33歳という年齢を考えますと、天皇家を弱体化するために、百済王族(藤原氏)により、天皇(大王)に据えられた可能性が高いように思います。

⑨643年山背大兄王は蘇我入鹿に殺され、「斑鳩宮」は焼き払われた。
当初にお話ししましたように、山背大兄王一族を殺害し、「斑鳩宮」を焼ったのは百済王族(藤原氏)でした。

⑩645年乙巳の変
乙巳の変は645年に起きた百済王族によるクーデターでした。
日本書紀には「中大兄皇子(後の天智天皇)及び中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、専横を極めた蘇我入鹿を誅殺した」と記されており、そのときの状況や経緯が事細かく記されています。
下の絵はその時の様子を描いたものです。中央で首を切られているのが蘇我入鹿、ついたての向こう側で逃げている女性が皇極天皇です。

 

*注)乙巳の変につきましては、本ブログの「【11話】飛鳥時代編-不比等が作った幻想の国」(その3):2023/08/24」に詳しく解説しております。興味のある方はそちらをご覧ください。

乙巳の変は、本当は百済王族の「豊璋(ほうしょう)」と「翹岐(ぎょうき)」が、蘇我入鹿を惨殺したクーデターと言うべき事件でした。
日本書紀を編纂する過程で、「豊璋」のやったことを「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」に、「翹岐」のやったことを「中臣鎌足」に重ね合わせ、歴史がねつ造・改ざんされています。
587年に物部守屋一族を滅ぼしたときも、同じような手口だったのかも取れません。
目的は、天皇家の近くにいて、強い軍事力を持った蘇我入鹿一族を滅ぼし、百済王族による日本支配を一気に推し進めるためだったと思われます。

乙巳の変の後も、百済王族の「豊璋」と「翹岐」は、次々と邪魔者を殺し、日本支配を強化していきます。それら「豊璋」と「翹岐」のしたことも、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)がしたこととして、日本書紀に記され、日本の歴史となりました。

そして、天智天皇(豊璋)の血筋は、後に天皇家の主要な血筋となります。
一方の中臣鎌足(翹岐)血筋も、藤原氏として日本の支配者層の有力な血筋となっていきます。

さて、今回のお話しも長くなりました。今回はここまでとさせて頂きます。
次回は、乙巳の変から続きのお話をさせて頂きます。

【最後に】
私は、以下の2点を知って頂きたいという思いで、今回のお話を書き記しました。
1.百済王族は人を殺すことを常としており、息を吐くように嘘をつく人々です。
2.古代日本の社会は、本当は穏やかで平和的な、人に優しい社会でした。日本書紀に記されている殺伐とした記述の数々は、百済王族に依るものです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。