今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。

①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)
②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)
③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)
④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)
⑤中臣鎌足(翹岐)の死(669年)と天智天皇(豊璋)の死(671年)
⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)
⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)
⑧天武天皇の死、天武天皇の皇后が持統天皇として即位(686年)
⑨持統天皇が藤原不比等(32歳)を異例の抜擢、不比等が正史に初登場(689年)
⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)


これまで、このシリーズのブログ記事で、日本書紀に記されている「天智天皇」と「中臣鎌足」が、実は百済王族の「豊璋」と「翹岐(ぎょうき)」であり、671年当時の日本(倭)国が百済王族によって、ほぼ支配された状態になっていたことをお話ししてきました。
これからお話しする「壬申の乱(672年)」において、天武天皇の奮闘により、一度は日本(倭)国の統治を日本(倭)人の手に取り戻すことに成功します。
ところが、天武天皇の死後、日本は、藤原不比等を始めとする百済王族の勢力に、今度は完全に乗っ取られ、支配されることとなってしまいました。
今回は、「壬申の乱」から「日本書紀が完成」するまでに起こった、これらの一連の出来事についてお話ししたいと思います。


⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)
「【14話】つづき近江朝編-不比等が作った幻想の国「日本」(その6)」では、671年、天智天皇が山階(やましな=山科)の郷へ遠乗りに出かけ、そのまま行方知れずとなり、おそらく天智天皇は処刑されたものと推測される、というお話しをしました。
日本書紀の記述では、天智天皇は671年12月3日に病死したことになっています。その少し前、10月17日に、後の天武天皇となる大海人皇子が、天智天皇のもとを訪れます。
天智天皇は自分の長男である大友皇子に後を継がせようとしていました。その意向をよく解っている大海人皇子は、自分が皇位につく気は無いことを告げ、出家して吉野に行った、という日本書紀の有名な下りがあります。

下図を参照してください。滋賀県の琵琶湖下方左手に、天智天皇の開いた近江朝の都である大津宮があります。その直ぐ左下の京都府に入ったところに、「扶桑略記(ふそうりゃくき)」にある、天智天皇が行方知れずとなった山科の地があります。そして、奈良県の真ん中程に吉野があります。


 

前述のような、日本書紀に記されている天智天皇と大海人皇子とのやり取りは、実際には無く、また天智天皇は病死でも無かったものと、私は考えています。

天智天皇が671年12月3日に病死したとされる頃の大海人皇子の動向を、以下、見ていきます。
大海人皇子は663年の白村江の戦い後、長期に渡り、北九州に滞在し、戦後処理を担い、主に唐からの使者と交渉する中心的役割を果たしていたと思われます。
671年11月3日とされる郭務悰(かくむそう)訪日の際の交渉も、大海人皇子が担当したものと思われます。天智天皇(豊璋)は戦争責任を問われることを恐れ、唐の使者を避けていたのではないでしょうか。
この頃には既に大海人皇子の兄である本物の中大兄皇子は殺されていたと考えられますので、対外交渉の重責を担える人材も限られていたと思われます。

おそらく大海人皇子は、唐からの使者、郭務悰(かくむそう)の意向を受け、中臣鎌足(翹岐:ぎょうき)を669年に処刑した時と同様に、天智天皇(豊璋)を処刑する手はずを整えていたと思われます。

戦後処理に携わるなか、大海人皇子は郭務悰(かくむそう)と緊密にやり取りをしていた節が感じられます。671年11月3日の郭務悰(かくむそう)訪日時に白村江の戦いでの1400名の日本人捕虜も返されています。捕虜となった人々が、天智天皇(豊璋)を相当に恨んでいたことことは想像に難くありません。返された捕虜は大海人皇子の戦力となったのかも知れません。

671年12月に天智天皇(豊璋)が死んだ後、郭務悰(かくむそう)は翌年672年3月に再び来日します。5月には饗宴が催され、日本側から唐へ物が賜れ、郭務悰は帰国したとあります。まるで、戦後処理が完了したことを祝うかのようです。これで、唐(中国)との戦後処理は全て終了します。以降、中国は、「倭」国を「日本」国と呼称するようになります。

私には、大海人皇子が長期的な戦略に沿って、日本を取り戻す計画を着実に実施していたように見えます。
671年11月3日に郭務悰が訪日するのに先だって、同年10月17日に大海人皇子が天智天皇(豊璋)のもとを訪れ、出家を決意するという話は、どうしても「ちぐはぐ」な印象があります。
日本書紀にあります、皇位後継問題に関する天智天皇と大海人皇子とのやり取りは、藤原不比等の作らせた創作と考えるべきです。

671年当時、私の推定では、大海人皇子32歳、天智天皇(豊璋)49歳です。大海人皇子は天智天皇(豊璋)を処刑した後、大友皇子の皇位継承を阻止します。
大友皇子は、後に第39代弘文天皇とされますが、実際には、大友皇子は皇位についていませんでした。

話が少し横道に逸れてしまいますが、お話しします。
即位もしていない大友皇子を、第39代弘文天皇としたのは、1200年後の明治政府でした。このことから、明治政府が百済王族の流れを汲んだ政府であったことが、解るのではないかと思います。
更に、現在の自民党、特に清和会と言われた派閥は、明治政府の流れを、正にそのまま受け継いでいるということに、言及しておきます。
百済王族→明治政府→自民党 と言う流れです。
以下、お話を元に戻します。

[大海人皇子の関ヶ原での戦い]
大海人皇子は、天智天皇(豊璋)の処刑を指揮すると伴に、天智天皇(豊璋)の死後、大友皇子が皇位継承することを阻止するため、5月の郭務悰(かくむそう)との会談の後、吉野に来て準備を整えたものと思います。

大海人皇子は、吉野から不破道(関ヶ原)へ移動します。日本書紀には672年6月24日に吉野を出たと記されています。実際はもう少し早く不破道(関ヶ原)へ移動していたのではないかと思います。
不破道(関ヶ原)へ移動する理由は、
・大海人皇子の呼びかけに応じて出兵してくれた、岐阜や滋賀の豪族の軍勢と合流すること
・大友皇子が東国から徴兵することを阻止するため
以上の2点です。

大海人皇子側には、吉野に居る時から既に、九州福岡の豪族の軍勢が同行していたようです。
九州福岡(筑前国)の豪族の強力な援助を得られたのは、
・大海人皇子の子である高市皇子の母、尼子娘の実家(下図参照)であること
・大海人皇子が白村江の戦い後、長期に渡り、戦後処理のため北九州に滞在し、北九州の豪族と意思の疎通が充分に計れていたこと
以上2点の理由が考えられます。

 

 

大友皇子は、東国の豪族と何らかの繋がりがあったのかもしれません。671年6月に大友皇子の命により東国に使者が遣わされます。しかし、この使者は、不破道(関ヶ原)で待ち伏せていた大海人皇子の軍に捕まってしまいます。

大友皇子は九州方面の豪族にも援軍の使者を遣わします。しかし、大海人皇子は既に九州地方の豪族に、大友皇子の援軍の依頼を断るよう、約束を取り付けてありました。
以上のように、大海人皇子は周到な計画と準備により、戦いを有利に進めます。

下図に、大海人皇子と大友皇子の動きが書かれています。大海人皇子は吉野宮を出発し、岐阜や滋賀の豪族の軍勢と合流し、野上(関ヶ原)で陣を張ります。
大海人皇子は、大友皇子の軍が到着するまで、野上(関ヶ原)で軍事訓練を入念に行ったようです。


 

大友皇子側は、兵力の増強に手間取り、大海人皇子の軍に遅れて、野上(関ヶ原)に陣を張ります。

[大海人皇子と徳川家康の類似点]
突然ですが、この時の大海人皇子の陣の張り方が、約900年後の関ヶ原の戦いでの徳川家康の陣形と似ていたようです。
どのようなところが似ていたのかと言うと、各地から参集した武将の軍を、前面に配置し、後方に大海人皇子或いは徳川家康が本陣を構えていました。
言い方は少し悪いのですが、寄せ集め的ともいえる軍を前面に置き、後方を大海人皇子或いは徳川家康の軍が固めることで、前面に配置された軍は、後方に逃げることは出来ず、正面の敵と戦って勝つしかない状態にされています。

その他、戦術的な面でも似ているところがあるようです。1600年の関ヶ原の戦いでの、西軍の小早川秀秋のような、東軍の徳川側への内通者を、壬申の乱の時の大海人皇子も同様に、大友皇子軍の中に作っていたようです。

結局、671年の壬申の乱の時は、野上(関ヶ原)では小競り合い程度の戦いが行われた程度で、関ヶ原では決戦には至りませんでした。しかし、まるで1600年の徳川家康と石田三成の決戦の場としての、関ヶ原の戦いの予行演習のような様相を呈していたように思えます。

[大海人皇子、壬申の乱で勝利する]
7月に入り、奈良や大阪、続けて滋賀など各地で、大海人皇子軍と大友皇子軍の戦闘が起こり、大海人皇子の軍が連戦連勝します。追い詰められた大友皇子は自害し、壬申の乱は終結します。
「壬申の乱」は、本当は「内乱」では無く、百済王族の侵略から日本を取り戻す「戦い」であった事を考えると、「壬申の戦い」とするのが正しいのではないでしょうか。

[天皇を神とした不比等]
翌673年2月27日、飛鳥の地で、天武天皇は正式に天皇となります。
この時、天武天皇は、自らを「天皇」と名乗ります。記紀に記されている歴代の天武天皇以前の「天皇」は、実際には「大王」と名乗っていました。
また天武天皇は、「倭」という国名を正式に「日本」と決定し、宣言しました。

現在、日本の歴史学者の一般的見解は、「天皇」という称号も「日本」という国名も大宝律令制度が施行された第42代文武天皇の時代の、701年に定まったとしています。
これらは藤原不比等によって、ねつ造されたものです。現在もこれらが定説となっているのは、そのねつ造を、今なお日本政府が積極的に支持しているからです。

また、701年から、「天皇」の概念として新たに、天武天皇の時には無かった概念が付け加えられるようになります。それは、「天皇」を「神」とする概念です。天武天皇は「天皇」を「神」とはしませんでした。
ところが720年に編纂が完了する日本書紀は、「天皇」を「神」とする概念の根拠となるように記述されています。
天皇の祖が、「ニニギノミコト」として天孫降臨したという記述に始まる、記紀の一連の物語です。これは、天武天皇の死後、藤原不比等の意向により、書き換えられたものであることは、疑いの余地はありません。

そして、この「天皇」を「神」の子孫とする概念も、現在の日本政府は必死に守り、受け継ごうとしているように見えます。
しかし、神の子孫としての天皇の世襲制度は、既に終っている過去の遺物であると、私は考えています。日本人の多くが、このような見え透いた虚構に惑わされること無く、しっかりと現実を見極めて頂きたい、と心より願っています。
時代は大きく変わり始めています。今や偽物は消え、本物や封印された日本の神々が顕れる時代になっています。

次回は第【18話】として、国史編纂編をお話しいたします。最後までお読みいただきありがとうございました。