今回は第16話として「壬申の乱編-不比等が作った幻想の国「日本」(その7)」をお話しする予定でした。ところが、つい最近、私にとって長年の懸案であった「伊勢神宮の秘密」を解明することが出来ましたので、第16話として「伊勢神宮の秘密」についてお話しします。
これからお話しする一連の内容は、今後お話しする予定の「天武天皇」のお話しに、深く関わってくることですので、「伊勢神宮の秘密」を先にお話し出来て、かえって良かったかと思います。

解明した伊勢神宮の秘密とは、以下の2点です。
1.伊勢神宮が現在の場所に創建された本当の理由
2.伊勢神宮の内宮(ないくう)と外宮(げくう)の本当の御祭神


最初に、判明した事実を結論から申し上げます。


1.伊勢神宮が現在の場所に創建された本当の理由
伊勢神宮の内宮正殿の場所(特に7世紀に天武天皇によって建てられた内宮正殿の跡地)は、夏至の日に、富士山の背後から日が昇るように見える線上にあります。
実際には、伊勢神宮の内宮正殿の東側に山があるため、その山に登らなければ日の出は見えません。しかし、内宮正殿は下の写真のように、夏至の日に、富士山の背後から日が昇るように見える、まさにその線上に創られています。

 

上の写真は、伊勢神宮から10km程離れた海岸線にある、同じ伊勢市内の「二見興玉(ふたみおきたま)神社」から見た日の出の風景です。
こちらからは、夏至の1週間程前と1週間程後に、このように富士山の背後から、日が昇る様子を見ることができます。夏至の日は富士山の左側の、少し離れた所から日が昇るようになります。

2.伊勢神宮の内宮と外宮の本当の御祭神
伊勢神宮が創建されたとされる4世紀末頃の、当初の御祭神は、
内宮:国之常立神(くにのとこたちのかみ)
外宮:天照大神(あまてらすおおみかみ)
国之常立神は日本の最高神として内宮に祀られました。
天照大神は祝(いわい)の神として外宮に祀られたものと思われます。祝の神とは、神を祀る神と言う意味です。

現在の御祭神である
内宮:天照大神(あまてらすおおみかみ)
外宮:豊受大御神(とようけのおおみかみ)
の2柱(ふたはしら)は、8世紀初頭頃に藤原不比等によって変更されて祀られた(ことにされた)ものと考えられます。
表面上は祀られていても、正式には祀られていないかも知れないと、私は考えています。

以上2点の「伊勢神宮の謎」が解明されたことにより、浮かび上がって来た真実から、私は以下のことが読み取れたと考えています。
・「古代史」、「天皇家」、「日本の最高神」などに関する、常識の多くが覆された
・現代の日本では一般的に、縄文人の時代の終わり頃から、日本列島に流入する多くの渡来人により、「民族」や「文化」が、大きく変わったと考えられている。しかし、それらは、藤原不比等に始まった藤原氏一族による、歴史のねつ造と洗脳によるものだった
・日本列島に多くの渡来人が流入したことは事実ではあったものの、現代日本人の「文化」や「精神性」の多くは、縄文人から綿々と途切れること無く、受け継がれて来たものであった。その受け継がれたもので、最も大事なものは、母音言語だった

それでは、まず最初に、解明された「伊勢神宮の謎」の2点について、解説していきます。


1.伊勢神宮が現在の場所に創建された本当の理由
【夏至における「伊勢神宮の内宮正殿」、「富士山」、「日の出」の位置関係】
下図をご覧ください。右の指示地点が富士山山頂で、左の指示地点が伊勢神宮の内宮です。直線距離は約209Kmになります。

ちなみに、地球を半径6378kmの球体とし、大気の屈折により6%遠くまで見えると仮定して、富士山が見える限界の距離は、233km程度と算定されています。
つまり、伊勢神宮は富士山が見える、ほぼ限界の距離と考えられます。しかも、伊勢神宮付近の平地から富士山を見た場合、富士山の山頂部分しか見えないということになります。
 

 

上図の「伊勢神宮地域」を拡大したものが下図になります。
その下は、「伊勢神宮の内宮正殿」から見た、今年の夏至6月21日の日の出の方角を示した図です。

 

 

2つの図は縮尺が異なる等のため、見比べ難いかと思いますが、黄色矢印の部分の道路のラインに注目してください。伊勢神宮の内宮からの「富士山の方角」と、「夏至における日の出の方角」が一致していることが、確認できるかと思います。
このことより、伊勢神宮の内宮から「夏至における日の出の方角」のライン上のどこかで、夏至に日の出を見ると、富士山の背後から日が昇るのを見ることが出来ることが解ります。


【「伊勢神宮の内宮正殿」付近での日の出展望ポイント】
下の地形図をご覧ください。
「伊勢神宮の内宮正殿」の東北東にある山を地形図で見ると、稜線上の展望ポイントから、夏至の日の出を見ることが出来きそうです。
「日の出展望ポイント」から伊勢湾までの間に標高180mほどの山はありますが、「日の出展望ポイント」は標高240mほどですので、富士山と日の出は見えそうです。

 

伊勢神宮内から展望ポイントに至る道があります。次の「上空からの写真」をご覧ください。


道は途中で切れているように見えますが、道が木々に覆われて見えなくなっているようでもあります。拡大図を下に掲載します。

 

現地に行って、実際に見ないと断定は出来ませんが、どうやら伊勢神宮の敷地から、夏至の日の「日の出展望ポイント」まで道があり、歩いて行けそうです。距離も2km程度です。
尾根沿いの道はクルマが走った跡のようなものもあります。この道沿いには電信柱が設置され、しかも、伊勢神宮の敷地からしか、この道に入れないようになっているようです。
Googleマップで調べた限りでは、上の写真の右の方の、伊勢志摩スカイラインの近くを通る場所でも、フェンスや石垣などで、この道に入れないようになっています。最後は、伊勢志摩スカイラインの近くで行き止まりになっているようです。

今なお、このような道が存在していること自体が、過去において展望ポイントで、日の出を礼拝していた可能性を、私は感じます。
場合によっては、伊勢神宮の神官は、今も「夏至の日の出礼拝」の事を知っているのかも知れません。
つまり、藤原不比等の時代に、それまで行っていた「夏至の日の出礼拝」を禁止された後も、なお、語り継いだり、伊勢神宮内の文書(もんじょ)に書き残しておいたりして、現在までそのような神事があった事を伝承している可能性もあるかも知れない、と言うことです。
この後の、伊勢神宮の本当の御祭神の部分でもお話ししますが、鎌倉時代の外宮の神官は、外宮には「国之常立神」がおり、内宮の「天照大神」よりも神格が上であると「神道五部書」と呼ばれる書物を書いて論陣を張っていたそうです。
伊勢神宮の神官の方々が、何か知っている可能性はあると、私は思います。

以上で、「伊勢神宮の内宮正殿」の東北東にある山から、夏至の日に日の出を見ることが出来るという点と、過去において夏至の日の日の出を礼拝してた可能性がある、と結論しました。
次に、「伊勢神宮の内宮正殿」の東北東にある山から、夏至の日に日の出を見るにあたり、伊勢湾より先に障害物などなく、富士山を見ることが出来るのかを確認します。


【伊勢湾より先に障害物などなく「富士山」が見えるのか】
「伊勢神宮の内宮正殿」近くの山頂から日の出を見る場合、伊勢湾から先に障害物などが無く、「富士山」が見えるのかを、念のため確認してみます。

伊勢神宮の内宮正殿から富士山に至るライン上に富士山の見える場所を探すため、伊勢湾方面を見渡してみまます。
下図を参照してください。
 

 

伊勢神宮の内宮正殿から富士山に至るライン上に10Km程下りますと、伊勢湾の「海岸線」に出ます。ここの北西にある二見興玉神社からは、富士山を望むことが出来ます。
一方、富士山に至るライン上の「海岸線」からは、前方に障害物となる半島があり、富士山を望むことは出来ません。
ところが、その先にイルカ島(日向島)という小さな島があり、そこに「富士見展望台」という塔がありました。下の写真を参照してください。

 

富士山の写っている写真は見当たりませんでしたが、標高が数十メートルの岡の上に立っている展望台から富士山が見えるようです。
ここから富士山が見える、ということですので、標高240m程度の「伊勢神宮の内宮正殿」近くの山頂から、富士山を見ることは充分に可能であると考えられます。

それとは別に、富士山に至るライン上からは少し離れますが、「伊勢神宮の内宮正殿」近くの山頂から東に5km程の所に、伊勢志摩スカイラインという自動車専用道路にある「朝熊山頂展望台」から、富士山を見ることができるようです。以下の写真をご覧ください。

 

上の写真では、雲がかかっていて富士山は見えませんが、案内板に富士山の見える位置が示されています。

下の写真は、かなりズームしているようですが、「朝熊山頂展望台」から、見え過ぎるように思えるほどの富士山が写真に撮られています。日の出頃の写真のようですが、1月の撮影なので、富士山のずっと右の方から日が出てくると思われます。
ちなみに、「朝熊山頂展望台」は標高500m程のところにあります。

 

余談ですが、この写真を見ると、地球は球では無く、実はフラットなのかもしれない、或いは通常言われているよりも、もっと大きな球体なのかも知れないと思えたりします。

それはさて置き「イルカ島」と、この「朝熊山頂展望台」の調査結果から、「伊勢神宮の内宮正殿」近くの標高240m程度の山頂から、富士山を見ることが出来ると結論致します。


2.伊勢神宮の内宮(ないくう)と外宮(げくう)の本当の御祭神
【伊勢神宮に天照大神と豊受大神が祀られている不可解な点】
私は以前から、伊勢神宮の内宮に天照大神と、外宮に豊受大神が祀られていることが、不可解でした。

[豊受大神について]
まず、外宮に祀られているとされる豊受大神について、不可解に思った点をご説明します。
豊受大神は食物を司る神です。外宮に祀られているのは、天照大神のお食事を司るため、とされています。
ところが、肉体を持たない天照大神のお食事を司るというのが、妙な理由なのではないかと、私はずっと思っていました。
肉体を持つ、日本の一般国民の食の安寧を願って、豊受大神が外宮に祀られているとされるのであれば、私も納得出来ます。本来、豊受大神はそのようにお祀りされるものだと思います。

以上が、外宮に豊受大神が祀られているとする事に対する、私の違和感でした。

[天照大神について]
次に、内宮に祀られているとされる天照大神について、不可解に思った点をご説明します。
日本書紀の上世(かみよ:神話)の巻を読んでいますと、天照大神は、即ち卑弥呼であることが解ります。これは、間違えようのない真実だと私は思っています。
勿論、天照大神が卑弥呼であることが解らないように、日本書紀は書かれています。そのように書かせたのは、またしても藤原不比等だと、私は考えています。
ところが、「天照大神は卑弥呼のことですよ」というヒントは、そこここに記されているのです。
今までに、何度もお話ししてきたことなのですが、これは、歴史をねつ造しようとする権力者に対して、後世に真実を伝えようとする日本書紀の編纂担当者による抵抗だったのだと、私は思っています。

そして、日本書紀と魏志倭人伝の内容から、卑弥呼が如何に優れた巫女であったのかも解ります。巫女としての能力ばかりでは無く、中国との外交や、絹織物などの産業の育成などに尽力した人であったことも解ります。
さらに、日本書紀の内容から、卑弥呼が出雲出身の巫女であったと、私は推定しています。また、出雲出身の巫女だったことなどから、縄文人系の血筋と文化を受け継いだ女性であった事も推測出来ます。

「天照大神」が「卑弥呼」であるとする根拠を挙げ、ご説明するのは長くなりますので、別の機会に譲りたいと思います。今は、「天照大神」即ち「卑弥呼」が伊勢神宮の内宮に、最高神として祀られる事の不自然さについて、お話しします。

第一に、先ほどもお話ししましたが、鎌倉時代の外宮の神官は、外宮には「国之常立神」がおり、内宮の「天照大神」よりも「神格」が上であると主張していました。
私も同様に、神様には「神格」というものがあると考えています。そして、日本書紀には、「国之常立神」は最初に存在した神様であることが記されています。
このように考えると、「天照大神」は立派な神様であると思われるものの、伊勢神宮の内宮に日本の最高神として祀られるべき神様は、「神格」が上である「国之常立神」のような神様ではないかと思っていました。

第二の不可解な点として、「天照大神」とされる「卑弥呼」が、出雲出身の縄文系の女性であったと推測される点が挙げられます。
と申しますのも、日本書紀を読む限り、天皇家、藤原氏などの権力者側が、「出雲系」、「縄文系」、「女性」、それら全てを卑下していることは明かです。
藤原不比等以降の天皇家が、そのように卑下している出雲出身の縄文系の女神である「天照大神」を、日本の最高神として位置づけ、天皇家自らも崇め奉る「神様」とするとは、とても考えらません。

以上が、「天照大神」を伊勢神宮の内宮に、日本の最高神としてお祀りされていることに感じていた、不可解な点でした。


【ベラ・コチェフスカさん】
ベラ・コチェフスカさんと言う女性の超能力者をご存知でしょうか。
以下、ベラ・コチェフスカさんの略歴です。
1945年にブルガリアで生まれ、12歳の時に神様から不思議な能力を授かった
1990年には、旧ソ連の科学アカデミーに招待され、精密な検査の結果、世界一の超能力者として認められる
1992年に、本人のご希望もあり来日し、伊勢神宮に参拝する
2011年に亡くなる

私は1年程前に、ベラ・コチェフスカさんのことを、マドモアゼル愛さんのアメーバブログの記事で知りました。
マドモアゼル愛さんは、ベラ・コチェフスカさんと会った事があるそうです。そして意気投合したお二人は一晩、夜遅くまで語り明かしたとのことです。
そのブログ記事の内容が、非常に興味深いものだったので、早速ベラ・コチェフスカさんが来日した時の様子について書かれた、以下の本を購入し、読んでみました。他に、ベラ・コチェフスカさんについて書かれた本はありませんでした。

 

来日した時のベラ・コチェフスカさんの発言には、私の理解を超えるような興味深いものが数々ありました。
その中から今回は、「伊勢神宮の秘密」に関連した、ベラ・コチェフスカさんの発言や行動をピックアップしました。

①ベラ・コチェフスカさんの発言:富士山は聖なる山。富士山は、日本だけで無く、世界中の神々を支える背骨のようなもの。日本は特別な聖地で、そのなかでも富士山はヘソのような役割を果たしている。
宇宙からのエネルギーが富士山に降り注ぎ、地下で二つに分かれ、皇居と伊勢に流れているのが見える。

②伊勢神宮のお参りをする夢を何度も見ていたというベラ・コチェフスカさんは、伊勢神宮を参拝する。
最初に伊勢神宮の外宮の正殿を参拝した後、いきなり「神様に引っ張られていく」と言いながら、外宮の多賀宮(たがのみや)に引き寄せられるようにして向かう。多賀宮に着くと、ベラ・コチェフスカさんは急に多賀宮の白砂に膝をつき、両手を合わせて額ずき、涙を流した。
多賀宮を出た後に、ベラ・コチェフスカさんは「多賀宮には、ヤハウェイが祀られています」と言った。

③ベラ・コチェフスカさんは突然現れた高貴な心霊に、奈良へ来るように呼ばれる。高貴な心霊は美しい小柄な女性で「イミコ」と名乗ったと言う。これは卑弥呼のことと思われる。
卑弥呼に呼ばれた場所は奈良の明日香村、石舞台だった。卑弥呼と会話したベラ・コチェフスカさんは言った「卑弥呼は偉大な女性で、卑弥呼の存在は日本民族にとって、とても大きな意味を持っていたのね」。
そして、「卑弥呼の住んでいたところはここ」と石舞台の下の公園の芝生を指さした。
ベラ・コチェフスカさんは、「卑弥呼は、最後は剣で刺し殺された」と言った。続けて、「卑弥呼は、自分はここに生きていた。そして歴史の方向性を整えたことを子孫の日本人に知ってもらいたかった。でも子孫達は、観光バスに乗ってきて、石舞台などを、さっと見物するだけで、ちっとも卑弥呼のことを振り向いてくれない、と嘆いている」と言った。
ベラ・コチェフスカさんは、最後に「この明日香は、歴史の地層がいくつも折り重なっている。それがみんなよみがえってくる…。血塗られた殺伐とした歴史…。耐えられない」と言い、その場を離れた。

④ベラ・コチェフスカさんの発言:失われたユダヤの十部族のうち、数部族が4世紀頃、中央アジアから日本に来ている。秦氏もその一つで、その子孫が4代目の女帝と結ばれている(4代目の女帝とは持統天皇のことで、その夫は天武天皇)。


【突然、断片の知識が結びついて意味を持つことがある】
1年前に、私はベラ・コチェフスカさんの本を、とても興味深く思いながら読んだものの、正直なところ、本に書かれている内容の大半が、どう判断したら良いのか解らないものばかりでした。
ただ、③の卑弥呼の話については、私は以前から卑弥呼がヤマト国の巫女で、日本の歴史上、とても重要な役割を果たしたにも拘わらず、まるで存在しなかったかのようにされてしまったと考えていましたので、非常に良く納得出来ました。
しかしその他の大半の内容については、概要は頭に入ったものの、頭の中で整理されずに、断片的な知識として存在するだけでした。

ところが最近、このベラ・コチェフスカさんの本を読んで知ったことと、その他の知識とが結びついて、突然、整合性のとれた一連の事実として、頭に浮かんできたのです。
以下、その思いついた内容をお話しします。


【伊勢神宮の御祭神の秘密】
伊勢神宮を、現在のような内宮と外宮の形式にして神様を祀ったのは、天武天皇が最初であったのではないかと、私は推測しました。
天武天皇によって、内宮には国之常立神(くにのとこたちのかみ)、外宮には天照大神が祀られました。
富士山は、日本の象徴であると同時に、最高神(国之常立神)の象徴でもあります。
夏至に、富士山の背後から、日が昇るような位置を選んで伊勢神宮の内宮正殿は建てられました。
「天照大神」である卑弥呼は「日の巫女」です。内宮の神様である「国之常立神」を祀る神様(祝(いわい)の神)として、「天照大神」は外宮に祀られました。「富士山」と「日(太陽)の出」に対応した、内宮と外宮の神様の配置となります。

これら一連の形式を整えることで、本当の意味で、国之常立神を伊勢神宮にお祀りすることができたのだと思います。
本当の意味とは、実在する最高神である国之常立神が、内宮の正殿に正式に祀られ、国之常立神を象徴する富士山から、宇宙のエネルギーが伊勢神宮に流れるようになったと言うことです。

ところが、天武天皇の死後、悪魔崇拝者の藤原不比等は、内宮正殿から国之常立神を排除し、代わりに悪神を祀ったのです。
このとき、藤原不比等と伊勢神宮の神官との間で、攻防があったのでは無いかと、私は思っています。伊勢神宮を守ろうとする勢力も、まだ大和政権内に残っていたと思われます。
結局、藤原不比等は表だって、悪神である「白蛇」を祀ることは出来ずに、建前上、外宮に祀られていた天照大神を内宮に祀ることとし、外宮には豊受大神を祀る事になります。

ところが、藤原不比等は内宮に、実際には悪神を祀り、天照大神をお祀りしませんでした。
そして、表向きには日本の最高神とされた天照大神が、実は卑弥呼であり、出雲出身の巫女であることを知られることを嫌い、そのことを秘匿すると伴に、日本の歴史から卑弥呼を消し去ってしまいます。

こうして卑弥呼は、日本の歴史上に存在したことすら疑われてしまう状況にまでなってしまいます。また、国之常立神は伊勢神宮の内宮を穢されたため、外宮に祀られたような状態となります。
ベラ・コチェフスカさんが伊勢神宮を参拝した時に外宮で会ったヤハウェイの神とは国之常立神のことです。

日本の最高神である国之常立神は、キリスト教やその他、世界中の宗教の最高神と同一神であるのではないかと、私は考えています。
世界中の各地域の神様はそれぞれの地域に、各々に存在し、役所のように多数の神様から構成されていると思います。
日本には日本の地域神が、多数おられると言うことになると思います。
ただ、その上の最高神、絶対神は世界共通の、唯一の大神様である、ということだと思います。
ベラ・コチェフスカさんの発言から判断すると、日本は神界において、世界の中心的な存在であるということになります。

また、①にあります、「宇宙からのエネルギーが富士山に降り注ぎ、地下で二つに分かれ、皇居と伊勢に流れている」というベラ・コチェフスカさんの発言を、天皇家と神様の関係と捉えてしまう傾向があるのではないかと思いますので、敢えて補足します。

富士山から流れているエネルギーのうち、伊勢神宮に流れるエネルギーは前述しましたように、天武天皇による伊勢神宮の、国之常立神の創祀によるものです。
皇居に流れるエネルギーも、天皇家とは無関係で、徳川家康による国之常立神の江戸城の創祀によるものと、私は考えています。
「伊勢神宮」、「皇居」のいずれの場合も、悪魔崇拝者による、神に対する冒涜的な行為が行われたのだと思います。

明治政府が天皇を担ぎ出して、ノコノコと京都から江戸に出てきたたことが、私にはずっと不可解でした。しかし、その謎がようやく解けました。
悪神崇拝者は、「神と人の繋がり」を断つことが目的なのです。皇居も伊勢神宮と同じです。悪神崇拝者は江戸城を占拠し、穢すために京都から出てきただけなのです。


【天武天皇は4世紀頃に日本に来たユダヤ人の子孫】
ベラ・コチェフスカさんは「天武天皇は4世紀頃に、日本に来たユダヤ人の子孫です」と言っています。
天武天皇がユダヤ人の子孫であったのか、無かったのか、いずれにせよ、本来であれば、日本書紀には天武天皇の祖先について、詳しく記されていたものと思います。
なぜなら、日本書紀の編纂を命じたのは、天武天皇ですから、その本人である天武天皇の系譜について、詳しく書かれているのは当然です。

勿論、その様な記述があったとしても、藤原不比等によって消されたことは、間違いありません。
藤原不比等は、天皇家は初代神武天皇から万世一系の血筋であり、朝鮮半島から入ってきた民族が、天皇家になったように思わせたかったからです。

このため、おそらく「天武天皇の先祖の系譜」は何処にも出てくることは無いと思います。
しかし、「4世紀頃に来たユダヤ人の子孫」と言うベラ・コチェフスカさんの発言は、私は歴史的な整合性がとれた内容であると思っています。
明らかにユダヤ人と思われる埴輪が発掘されている、千葉県や茨城県の古墳は4世紀頃のものだからです。

その事実から、ユダヤ人は、主に関東地方を目指して渡来して来たのであろうと、私は考えています。
ユダヤ人は、朝鮮半島の高句麗や新羅を経由して、日本海側の、石川県の能登半島や新潟県から日本に入ってきて、日本本土で最も早く「日の昇る」場所である、千葉県や茨城県を目指したのではないでしょうか。
最も早く「日の昇る」場所は、ユダヤ人にとって、聖地のように考えられていたと思います。

以上のように見てくると、天武天皇がユダヤ人の子孫だったとした場合、夏至の日の出の時、富士山の背後から日が昇るように見える場所に、伊勢神宮の内宮正殿を創建したことは、極めて自然に納得できることのように思えて来ます。

少し話が変わりますが、日本人とユダヤ人の遺伝子や言語などが、似た部分がある事に関して、大量のユダヤ人が日本に渡来して来たためだ、とする考え方があります。
私は、その説は間違えていると思います。
日本人とユダヤ人の遺伝子や言語などが似ているのは、数万年前の遙か昔に、中近東付近で、ホモサピエンスと混血したネアンデルタールを、日本人とユダヤ人が共通の祖先としてるからです。

中近東付近で、ホモサピエンスと混血したネアンデルタールのうち、東へ移動して日本に辿り着き、縄文人となった人々が、我々日本人の祖先です。(私のブログ記事「【01話】日本人の祖先である縄文人はどこから来たのか」を参照してください)
一方、中近東付近で、ホモサピエンスと混血したネアンデルタールのうち、その場所に残った一派が、現在のユダヤ人の祖先となります。
日本人とユダヤ人は、数万年前に共通の祖先を持っているので、遺伝子や言語などが似ているのです。


【神武東征】
日本書紀に、「神武(じんむ)東征」というお話しがあります。
神武天皇が九州の宮崎から大和(奈良)を目指して攻め上り、大和(奈良)入り後に初代の天皇になると言うお話しです。
この話は、藤原不比等が書かせた創作ですが、この中に面白い記述があります。

神武天皇が大和入りしようとした時、最初に大和の西側から入ろうとして、撃退されてしまいます。そこで神武天皇は、大和に攻め入るには、西側から日(太陽)に向かってではなく、大和の東側から日を背にして、攻め入らなければならないと言います。つまり、朝日を背にしなければならない、という意味です。
そして、紀伊半島を迂回して、大和の東側から攻め入り、大和を平定することに成功します。
題目が「神武東征」というお話しなのに、神武天皇が東に向かって大和に攻め入いってはダメだと言うことが、私には、ずっと意味が解りませんでした。

しかし、今回、日本書紀の編纂担当者が言いたかったことが、解ったような気がしました。

大和政権は、3世紀末頃に始まった当初、諸国の「王」の中から合議制で「大王」を選んでいました。
「天皇」と言う名称を、最初に名乗ったのは、天武天皇でした。
その天武天皇は、「壬申の乱」で、主に東海地方の豪族の力を借りて、東から日(太陽)を背にして近江に攻め入って勝利し、天皇に即位しました。天武天皇が、真の初代天皇であると考えることも出来ます。
その後、天武天皇は、最高神の象徴である富士山の背後から、日の昇る場所に伊勢神宮の内宮正殿を創建し、国之常立神をお祀りました。

日本書紀の編纂担当者は、「神武東征」のお話しで、初代天皇は「神武天皇」では無く、「天武天皇」ですよ、と言いたかったのかも知れません。


【総括】
今回の「伊勢神宮の秘密」のお話しでは、前回の「悪神」と「悪神崇拝」の考え方に加えて、「悪神」と「神」の対立という側面から歴史を観る考え方を取り入れました。
去年(2023年)の暮れから今年の初めにかけて、急激に変化する時代の流れを感じて、私は歴史を考察する新しい要素として、「悪神」、「悪神崇拝」、「神」、「神と人との繋がり」について深く考えるようになりました。

今の世の中の出来事を「悪神(悪魔)」と「神」の対立と言う側面で考えるだけでは無く、過去に起こった歴史上の出来事も、同様の側面から観る必要性を痛感しています。それにより、私たちの置かれた現状が、一層明確に見えてくるものと思います。

結局、「悪神(悪魔)」は、「神」と繋がっている「人」を、「神」から引き離し、最終的には「人の魂」を「神」から奪い取る戦いをしているのでは無いかと思います。
そしてベラ・コチェフスカさんの発言から推測すると、日本は神の側の中心的な存在であると考えられます。
だからこそ、「悪神(悪魔)」とその支配下にある「悪神(悪魔)崇拝者たち」は、日本を奪い取ることに集中しているのだと思います。つまり、日本を制圧すれば、世界を制圧することになるからだと思います。

今回の「悪神(悪魔)」とその支配下にある「悪神(悪魔)崇拝者たち」から、「神」と「神に繋がる私たち」に対する、当面の戦いは、収束に向かいつつあるように思えます。
後は、私たち日本人の、覚醒の問題ではないかと思います。兎に角、日本人の多くが覚醒しないことには、今の状況はあまり変わらないと思います。


【次回】
次回は「壬申の乱編」のお話しをします。「壬申の乱編」のお話しも、「悪神」と「神」の対立という側面から、歴史を考察して行きたいと思います。
次回のテーマとして、天武天皇と徳川家康の類似性について、お話ししたいと思っております。

最後までお読みいただきありがとうございました。